第31話 誤解された男


 翌日、荻原は仕事を欠勤した。


 朝のミーティング時、私は珍しく苛立ちを露わにした。


「調査も大詰めだって言うのに、こんな時に無断欠勤だなんて、無責任にもほどがあるわ」


「いや、欠勤という形で独自捜査をするのはよくあることです」


 荻原を責める私を石亀がやんわりと窘めたが、私は今一つ、納得できなかった。


 昨日の不法侵入について私は謎の女性の存在までは話したものの、荻原と親しくしていた女性がファティマの可能性があることについては黙っていた。上司としての判断ではなく、あくまでも個人的な理由――荻原の潔白を信じたい気持ちからだった。


 昨日、長時間の会議を行ったせいか調査の出足は遅く、報告の類はしばらく来ないように思われた。人の出はらったオフィスで私は、一体何を待てばいいのかと重苦しい気持ちになった。結局、午前中は自分の机で溜息をついているうちに、無意味に過ぎていった。


「そう、思い詰めなさんな。……どうだい、今日は私の行きつけの店で息抜きってのは」


 昼食を買いに行く気もなくしていた私に、久里子が言った。


「レディースデイってことで、私が奢るよ。……ヒッキも来るかい?」


「え、いいんですか?」


「綺麗な店を期待してんなら、おあいにくだけどね」


 目を輝かせている古森に、久里子は釘を刺すように言った。


 結局、私たちは昨日同様、事務所を空っぽにして女だけの食事会へと繰りだした。


 探偵社のあるビルの裏手に「野ざらし横丁」というさびれた飲み屋街があり、久里子はそこへ私たちを誘ったのだった。


 長さ百メートルほどの狭い横町はスナックなどが主で、時間のせいかその半分以上がシャッターを下ろしていた。


「建物は古い、店は古い、店主は古いの三冠王でね、この店は言わば老舗中の老舗さ」


 そう言って久里子が案内してくれたのは「ボンベイ」というカレー店だった。


 中に入るとカウンターのみの狭い店内は、濃厚なカレーの匂いが至る所に漂っていた。いつの物かわからない、化粧品やビール会社のポスターがべたべたと貼られ、壁紙は一部が茶色く変色していた。


「おう、久里ちゃん久しぶり」


 カウンターの向こうから久里子を認め、声をかけてきたのは褐色の肌と半白のごま塩頭が特徴的な初老の男性だった。


 私たちはカウンター席につくと、この店の定番らしい「南インドカレー」を注文した。


「ねえげんさん。ここも随分とシャッターの下りた店が増えたねえ」


「ああ、まあな。時の流れって奴さ。昔は行き場の無いやさぐれ者たちが昼間っからふらついてたもんだが……今じゃ平和なもんさ」


 厳さんと呼ばれた大将は、どこかあきらめの混じったような口調でそう漏らした。


「この界隈はね、スリやら空き巣狙いやらが身を寄せあって住んでた場所なのさ」


 久里子が小声で言うと、厳が楕円形の皿に白米を盛りながら後を引きとった。


「そうともさ。……ところが最近じゃみんな、年をとっちまってね。悪事を働くくらいなら年金を貰っておとなしくしてた方がましだって連中ばかりになっちまった。……俺も昔は石亀なんかとつるんで随分……」


 話し過ぎたとでも思ったのか、厳は一旦言葉を切るとカレーを盛ることに集中し始めた。


 やがて運ばれてきたカレーはどこか懐かしい、それでいて家庭のカレーとは明らかに違う香りを漂わせていた。私たちはしばらく、無言でカレーを口に運び続けた。久里子が唐突に口を開いたのは、皿の中身がほぼ空になり、それぞれがコップの水で口を湿らせていた時だった。


「ボス。まだテディのことが気になってるのかい」


 私が頷くと、久里子はうーんと唸って「困ったもんだねえ」と頭を振った。


「あの……私が言うのも何ですけど、テディなら大丈夫だと思います」


 唐突に、それまで無言だった古森が口を挟んできた。


「そうかしら」


「少なくとも私が知る限り、探偵の仕事であの人が職場に迷惑をかけたことはありません」


「そうだといいんだけど……」


 私が俯くと、カウンターの奥から声が飛んできた。


「せっかくうまいカレーを食ったところなのに、深刻な顔して、一体何を話してるんだい」


「うるさいねえ、商売人が客の話に口を挟むんじゃないよ」


「まあ、いいか。俺も年を取って細かい事が気になるようになってきたからな。いけねえ、いけねえ」


「そうさ。人間なんてみんなどこか後ろ暗いところを抱えてんだから、いちいち気にしてちゃ息苦しくて敵わないよ」


 久里子と厳のやり取りを聞きながら、私はまたしても果てしない疑惑の迷路に入りこんでいた。荻原の行為は果たして裏切りなのか?それとも単なる単独捜査なのか?


「さて、そろそろ仕事に戻ろうかね」


 久里子が席を立ったのを潮に、私たちはかわるがわる会計に立った。外に出ると、小路を思いのほか心地よい風が吹き抜けていた。周囲を見回すと、割烹着を着た老婦人が店の前で打ち水をしているのが目に入った。


「いいですね、この小路」


 私が言うと「そうだろう?」と久里子が笑いながら応じた。


「ここに来るとね、何とも言えない安……」


 数メートルほど進んだところで、久里子の脚と言葉が唐突に止まった。


「あいつら……」


 久里子の視線をたどった私は、はっとした。私たちの前に、立ちふさがるようにして黒づくめの男が三人、立っていた。


「なにかしら」


 私が思わず身がまえると、久里子が忌々し気に鼻を鳴らした。


「ふん、よそ者だね。ここいらじゃ、昼間っからあんな風にしゃんとした格好をしてるやつはいないからね」


 久里子がそう言うと、どこからか「久里ちゃん!」という声がして、何かが飛んできた。


 久里子は飛んできた物体を受け止めると、頭の上でくるりと回して見せた。物体は、デッキブラシだった。私は思わず声のした方を見た。先ほど、打ち水をしていた老婦人がなぜか握り拳を作ってこちらを見ていた。


「さあ、どっからでも来な、坊やたち」


 久里子が挑発ともとれる言葉を口にすると、男たちの列がさっと動いた。


「ボス、下がってください」


 古森がそう言って私の袖を強く引いた。次の瞬間、久里子を狙って男たちが左右から風のように飛びかかるのが見えた。危ない、そう思った瞬間、私は自分の目を疑った。


 久里子がそれまで立っていた場所から消え失せたかと思うと、男たちが目標を見失い、たたらを踏む姿が見えた。


「婆あ、どこに消えやがった」


 男たちが周囲を見回していると、前から突進しようと身がまえていた三人目の男が急に前のめりに倒れるのが見えた。


「あんたたち、レディの扱いがなってないね」


 倒れた男の背後から、デッキブラシを携え、身を低くして立っている久里子が現れた。


「くそっ、今度こそ」


 片側の男が久里子に駆け寄り、回し蹴りを放った。久里子の姿がすっと沈み、男の脚が空を切ったかと思うと、久里子のデッキブラシが男の軸足を綺麗に薙ぎ払うのが見えた。


「このっ、化け物めっ」


 もう一人の男が久里子の顔面を狙って蹴りを繰りだすと、久里子はその場でぴょんと跳ね、デッキブラシの柄で男の喉元をとんと突いた。男が大きな動きで倒れこむと、久里子は音もなく着地して再びデッキブラシをくるりと回した。


「く、久里子さん……?」


「どうやらこの子たち、新入りだね?「女殺陣師、百人組手の久里子」を知らないとはね」


 私は唖然として、涼しい顔をしてる久里子を見つめた。


「……ふう、年寄りにこんな激しい運動をさせるなんて、モラルがなってないねえ。……さ、そろそろお昼休みも終わりだ。帰るとしようか、ボス」


 私は頷くと、久里子の後に続いた。私は時折、背後で伸びている男たちを振り返り、今見たものは現実だったのだろうか、と訝った。


 小路を出て探偵社のあるビルの前まで来た時、ふいに古森が足を止め、私の方を向いた。


「ボス、すみませんが私、一階の薬局で頭痛薬を買ってから帰ります。先に戻っていてもらえますか」


 私が「うん。じゃあ先に行ってるね」というと久里子も「私も除菌スプレーを買うんだった」と言って古森の後に続いた。二人と別れた私は、事務所のある階へと急いだ。


 ――まさか二日続けてファティマが潜入してる、なんてことはないだろうな。


 そう思いながら、私はオフィスのドアの前に立った。鍵はしっかりと施錠されていた。私は少しほっとしながら解錠し、ドアを開けた。中に入り、二、三歩進んだ、その時だった。私の目は信じがたいものを捉えていた。


 私の机のあたりで、見覚えのある背中が動いていた。


「……テディ?」


 私が名を呼ぶと、身を屈めて何かを探していた人影が驚いたように立ちあがった。


「……ボス」


 目を見開いて私を見ている荻原は、気のせいか少しやつれているように見えた。


「あなた連絡もしないで、そこで何してるの」


「……俺なりにいろいろと調べることがありましてね。連絡を怠ったことは謝ります」


「ただの単独行動だったら私も心配しないわ、あなたのことだし。……でも」


「でも?」


 私は荻原の問いに答えず自分の机に歩み寄ると、引き出しからある物を取りだした。


「ひょっとしてあなた、これを探していたんじゃない?」


 私が手にして見せたのは、昨日拾った金色のピアスだった。


「それは……」


「見たこと、あるわよね?あなたが一緒にいた女の人が、身に着けていたものよ」


「…………」


「ねえ答えて、テディ。あなた、あの女の人が誰だか知ってて一緒にいたんじゃないの?」


 私が問い詰めても、荻原は顔色を変えなかった。


「答えられないなら、私が言うわ。あの人は蓬莱翁の秘書、ファティマよ」


「……その通りです」


「知っててなぜ、親しくしてたの?」


「……詳しいことは言えません」


 頭を殴られたような衝撃に、私はしばし次に口にすべき言葉を失った。


「……このところ、他の調査員たちが立て続けに待ち伏せに遭ってること、知ってる?みんな、うちの捜査内容がどこかに漏れてるっていうの。そんな時に、あなた……」


 私ははっとした。荻原の目に、苦悩の色とも言える光が見えたからだった。


「テディ……まさかあなたがスパイだったの?」


 荻原は私の問いに、あくまでも無言を貫いた。


「ねえテディ、何か言い訳してよ。理由があるんでしょ?」


「……言い訳はしません。お好きなように考えてくださって結構です」


「どうしてよ、テディ。……それにそのネックレス、あの人からもらった物よね?私たちを裏切ったの?答えて、テディ!」


 荻原の胸元には、ビーズの熊がついたネックレスが揺れていた。


「裏切ってはいません。……それ以上のことは言えません」


「そう……わかったわ」


 私の胸に、悲しみとも怒りともつかない冷たい炎が灯った。


「テディ。……もしどうしても納得のいく説明ができないというなら、あなたを今日限りで馘首くびにします」


 私の決定的な言葉にも、荻原はやはり動じなかった。


「いいの?テディ!解雇なのよ?探偵会社を馘首くびになってもいいの?」


 ――お願い、何でもいいから言い訳して、テディ!


「――仕方ありません」


 私はふいに足元が崩れてゆくかのような絶望感を覚えた。


「……じゃあここから出て行って。探偵じゃないならもう上司でも部下でもないわ」


 荻原は無言で私に会釈をすると、自分の椅子に掛けてあった上着を手にした。


「……じゃあ、後はよろしく」


 荻原はそれだけを口にすると、廊下に姿を消した。私はしばらくその場に呆然とたたずんでいたが、やがてのろのろと自分の椅子に戻った。


 何気なく机の隅に目を遣ると、転がっているボール状の物体に目が吸い寄せられた。何となしに手に取ると、それは荻原と初めて顔を合わせた時、私をあやすように寄越したカプセル玩具だった。


 私はカプセルに顔を近づけると、中を覗きこんだ。ずんぐりしたロボットと目があった瞬間、突然、嗚咽がこみ上げてきて私は両手に顔をうずめた。


 ――テディの馬鹿、馬鹿。どうして――


 涙が堰を切ったように後から後からとめどなく溢れ出し、私は身体を二つに折って大声で泣き続けた。やがて泣き疲れ、しゃくりあげている私の背に、誰かがそっと手を沿えた。


「気が済むまで泣いたらいいさ。……生きてるとね、こういうことは珍しくないんだよ」


             〈第三十二回に続く〉

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