第13話 探偵の手がまだ触れない


 女性が交差点を渡り終えると、こちらに近づいてきた。私は街路樹に身を寄せると、顔を伏せて携帯の画面に見入った。


 女性が背後を通り過ぎるのを確かめると、私は身体の向きを変え、女性の背中を追い始めた。


 ――いったい、どこへ向かっているのだろう。勤め先?それとも自分の部屋?


 女性の足取りは思っていたより早く、私は気づかれないよう身を隠すどころか、背中を追うだけで精いっぱいだった。やがて女性はバス停の前で速度を緩めると、バス待ちの列に加わった。バスか。まずいな。


 私は歩調を緩めると、女性の後ろに列ができるのを待った。やがて女性の身体がほぼ、見えなくなると、タイミングを見計らって列の最後尾についた。

 

 ――どうしよう。乗り物での尾行なんて、どうすればいいのかわかんないよ。


 バスが到着し、私は女性が搭乗口からバスの前方に移動するのを見届け、乗りこんだ。


 幸い、女性の頭が見えるあたりの後部席が空いており、私は早まっている鼓動を宥めつつ、座席に収まった。


 私は車内アナウンスに神経を集中させながら、女性が一人で降車しませんようにと祈った。女性が動いたのは、バスがオフィス街に入った時だった。アナウンスが次の停車駅を告げるのに合わせて、扉の近くへと移動したのだった。


 降りる。間違いない。私はは席を立つと、女性がこちらを向かないよう祈りながらそっと後方に立った。やがてバスが停車し、私と女性を含む何人かが降車した。


 私はバス停で時刻を調べるふりをしながら間隔を開けると、再び女性の後を追い始めた。


 交差点を二つほど進んだところで、私はふと、あることに気づき愕然とした。


 ――これは「須弥倉クリニック」へ向かう道じゃないか。


 女性が歩を進めるその先には、つい先日、私が背筋が凍るような思いをしたばかりのビルがあった。だとしたらクリニックは完全に廃業したわけではなく、まだ誰かが残ってあの場所を使用していることになる。チャンスだ、と私は思った。


 なおも尾行を続けてゆくと、女性は私の予想に違わず、クリニックの入っているビルへと吸い込まれるように消えていった。どうしよう、と私はビルの手前で足を止めた。


 ここで同じ建物に入ることは、前回以上に危険な状況に陥ることを意味する。いったん、追うのをやめてテディか石さんに応援を仰ぐか?いや、でも。


  尾行の目的は、彼女の入った部屋を確かめることだ。その部屋を訪ねることじゃない。

 どこに入ったかを確認した時点で報告し、応援を呼べばいいのだ。そう結論付けるや否や、私は女性の後を追ってビルの玄関へと駆けこんでいた。


 エントランスに足を踏み入れた時、既に女性の姿はなかったが、私は女性が「須弥倉クリニック」のある階にエレベーターで移動したことを信じて疑わなかった。


 私は再び鼓動が早まるのを意識しながら、ビルの利用者を装ってエレベーターに乗りこんだ。おずおずとクリニックのある階のボタンを押すと、エレベーターは緩やかに上昇を始めた。やがてふわりと身体が浮きあがる感覚と共に、エレベーターが停止した。


 私は開いたドアから廊下に出ると、あたりを見回した。廊下に人気はなく、周囲は静まり返っていた。私はとりあえず「須弥倉クリニック」のあった場所に向けて、そろそろと歩を進めていった。

 私はドアの前でいったん足を止めると、照明の消えた内部を透かし見た。前回、私はここで得体の知れない相手から、恐ろしい仕打ちを受けたのだ。


 私は思い切って、取っ手に手を伸ばした。強く握り、左右に動かそうと試みたものの、取っ手はびくともしなかった。


 ――まさかここで石さんの真似をするわけにもいかないし。


 私は中に入るのをあきらめ、腕組みをして考え込んだ。女性がこのフロアに来たことは間違いない。ならここで応援を呼ぶべきだろうか。でも……


 そこまで考えて、私ははっとした。先日聞きこみをした時、浦野の幼馴染の一美がこう言っていたではないか。浦野が「裏クリニックは裏口から入る」と口にしたと。


 私は廊下を引き返すと「須弥倉クリニック」から一番近いテナントの前で足を止めた。


 そこは、小さな歯医者だった。もしこの歯医者の構造が内部で奥に向かって伸びているとしたら、一番奥はちょうど「須弥倉クリニック」のすく近くになるのではないか?


 ここはビルの四階だ。外に「裏口」があるはずがない。だとすれば、隣のテナントの奥こそが「裏口」になるのでは?


 私は歯医者の前まで移動すると、思い切ってドアの取っ手を引いた。私の警戒心とは裏腹にドアはすっと手前に動き、中から照明の光が溢れ出した。


 営業中だったのか。私は肩透かしを食った気分で受付の方を見た。だが、次の瞬間私の目に飛び込んできたのは、ぞっとするような風景だった。


 ――誰もいない。ドアが開いていて、中もこんなに明るく照らされているのに?


 私の脳裏に、無人の「須弥倉クリニック」と対面した時の記憶がまざまざと蘇った。


 だが、あの時とは違う。私は探偵で、ここが謎だらけのフロアであることを知っている。


 私は靴を脱ぐと、静まり返ったカウンターの前を通って奥の診察室へと進んでいった。


              〈第十四回に続く〉

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