第21話 沈んだ地階
気が付くと、私は固い台の上に仰向けに横たわっていた。
頭上には巨大な照明――無影灯があった。
――ここは、手術室?
薬の影響か幾分痺れる頭の片隅に、「須弥倉クリニック」の地下で見た光景が蘇った。
そうだ、私はハンバーガーショップでカッツェに不意を衝かれて拉致されたのだ。記憶が蘇った途端、私の胸は激しい後悔と屈辱に苛まされた。
たとえ帰社前のわずかな距離とは言え、調査中であることに変わりはない。気を抜いてはいけなかったのだ。私はひとしきり自分の愚かさを噛みしめると、思考を整理した。
――それにしても、ここはどこなのだろう。
のっぴきならない事態であることは間違いなさそうだった。身じろぎをすると、手足に抵抗と痛みが感じられた。首をねじ曲げて身体の状態を調べると、手首と足首が皮のベルトで戒められていることがわかった。
いったい私をどうするつもりなのだろう、そう思った瞬間、視界に白衣を着た男性が現れた。
「ご気分はいかがかね、新米所長さん」
男性は丸顔の中年男性だった。どこかで会ったことがある、と私は思った。
「うちの病院が続いていれば、今ごろは相談室に勤務していたろうに……申し訳ない」
男性の言葉に、私ははっとした。この人は「須弥倉クリニック」の小峰医師だ。
見学の時に顔を見かけている。……どうりで見覚えがあるはずだ。
「ここは……どこなの」
「君たちも良くご存じの「裏クリニック」だよ。探偵を招待する予定はなかったが、せっかくのチャンスだったのでね。この前の実験の続きをさせてもらうことにした」
「この前の……まさか「P―77」?」
「察しがいいね。「あの方」のおっしゃるとおり、探偵もなかなか侮れないようだ」
私の脳裏に恐怖の記憶が蘇った。私もあの、適合に失敗した人間のようになるのか。
「この前は経口摂取だったので手間取ってしまったが、今回は開頭手術で直接、脳に移植することになる。成功すれば、君は新しい自分と出会うことになる」
気が付くと、小峰医師の周囲に助手と思しき白衣の人物が数人、現れていた。
「浦野さんはどこにいるの」
私は自分が窮地に陥っているにもかかわらず、探偵としての質問を放った。
「ここにはもういない。君も適合が成功すれば、会うことができるかもしれない」
私ははっとした。小峰医師が言っているのは尾藤が言っていた「訓練施設」のことだろう。そこまでわかったというのに、もはやそれを仲間に伝えることは叶わなかった。
「さあ、それでは申し訳ないがもう一度「眠って」もらうことにしよう。次に目覚めた時には君はもう、新しい存在に生まれ変わっているはずだ」
小峰医師が傍らの助手に目で合図をすると、私の目の前に円筒形のガラス容器が現れた。
容器の中には見覚えのある茶褐色の物体があった。Pー77だ。気のせいか、Pー77は獲物を前にして歓喜に身を打ち震わせているように見えた。
私が思わず身を固くすると、小峰医師が目で傍らの助手に合図を送った。次の瞬間、首筋に針の先端が押し当てられる冷たい感触があった。
誰か助けて――私が喉の奥で声にならない叫びを上げた、その時だった。
突然、がしゃんという何かを叩きつけるような音がして、フロア全体が闇に没した。
「……おい、何をやってるんだ。手術室の電源は独立系統のはずだろう」
小峰の怒号が闇の中にこだまし、不安げなさざめきが周囲を満たした。何が起きたのだろう、そう思っているとふいに、パチンという音がして両手足の戒めが緩んだ。
――なんだかわからないが、チャンスだ!
私は気配を悟られぬようそっと上体を起こすと、音を立てないように身体をずらし始めた。やがて足先が手術台の端から出ると、そのまま息を殺して床の上に降り立った。
「まだ電力は戻らないのか!これでは処置が始められんぞ」
小峰の苛立ったような声を背に、私は思い切って移動を始めた。
「うん?誰だ、今、ぶつかったのは」
私は頭上からの声には答えず、接触した人物を突き飛ばすようにして前に進んでいった。
「誰か!患者が逃げるぞ!」
怒号が飛び交う中、私は身を屈めつつ、闇の中をがむしゃらにつき進んでいった。
――どこかに、外部への出口があるはず。
私は壁に突き当たることを期待して両腕を伸ばした。……と、突然、何者かが闇の中で私を羽交い絞めにするのが感じられた。同時に、パチンという音がしてフロアの照明が一斉に点灯した。
「な……」
私は自由を奪っている存在からどうにかして逃れようと、身をよじった。視界の隅に赤いボディスーツの腕が見え、私ははっとした。
――カッツェ!
「やるねえ、あんた。……でも暗闇ならあいにくと、私の方がよく見えるのさ」
聞き覚えのある声に、私は脱出に失敗したことを悟った。
「助手の顔ぶれをよく確かめとくんだったね。でもまあ、新米にしちゃ、上出来だったよ」
カッツェはそう言うと、くっくっと含み笑いをした。気が付くと、私の正面にいる二人の助手の手に、銃のようなものが握られていた。
「頑張ったご褒美に始末のされ方を選ばせてあげる。前から撃たれるのと、私に後ろから喉を掻き切られるのと、どっちがいい?」
「こんなところで銃を撃ったりしたら、医療機器が滅茶苦茶になるわよ」
「あいにくとあれは麻酔銃よ。だって、あなたは小峰にとって貴重なモルモットですもの」
「喉を切ったりしたら、そのモルモットを殺すことになるわ。いいの?」
「いいのよ、だってあなたは元々、私の獲物ですもの。小峰には手が滑ったとでも言うわ」
私はぞっとした。この世に人を殺すのが楽しくて仕方ないという人間が実在するとは。
「……残念ながら、どっちもご免だわ」
私が正直な気持ちを口にすると、カッツェが可笑しくて仕方ないというように笑った。
「いいわ。潔くて、好きよ」
カッツェの腕が微かに動いた、その時だった。どこからか子供ほどの大きさの黒い影が現れ、私とカッツェに飛びかかってきた。
「なにっ?」
カッツェが不意を衝かれたのか、バランスを崩して床に倒れこんだ。黒い影は素早い身のこなしで飛び退ると私の方を向いた。影の正体は、毛むくじゃらの犬だった。
「いったい、どこから……」
訝る私に犬は「ついて来い」と言わんばかりにその場で二、三度、飛び跳ねてみせた。
「おのれっ」
わけがわからないまま犬を追って駆け出した私の背後で、カッツェの憎悪に満ちた声が上がった。犬は壁際まで来ると「うわん」と小さく吠えた。するとほぼ同時にチン、という音が聞こえ、壁の一部が左右に開き始めた。
――隠しエレベーターか。やった!
黒い犬が先に駆け出し、私もエレベーターに向かって駆けだそうとした。が、足を踏みだしかけたその時、背後から「待てっ」と制止を命ずる声がした。
「足を止めてこちらを向け。どうせエレベーターにたどり着く前にお前は死ぬ」
私がゆっくりと背後を振り向くと、目の前に麻酔銃とは異なる小型拳銃を構えた小峰がいた。
「ふざけた真似をしおって。ここで手術をせず殺しても、みせしめという意味なら同じだ」
小峰はぎらつく目を私に向けながら、銃口を目の高さに構えた。
「終わりだ、小娘」
小峰の指が引鉄にかかった、その時だった。ぎゃっという叫び声と共に、小峰が銃を取り落とした。見ると小峰の手首にメスが突き立っていた。
「誰だっ」
「さて、誰でしょうね。……助手の顔ぶれをよく見ておくんでしたね、小峰さん」
声のした方を見ると、白衣を着た助手の一人が、右手の指に複数のメスを挟んで立っていた。助手がゆっくりとマスクを取ると、その下から私のよく知っている顔が現れた。
「……テディ!」
「そろそろ覚えてくれませんかね、ボス。お家に帰るまでが探偵だってことを」
〈第二十二回に続く〉
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