第33話 重力の姫
「あっはっは、素敵よ、ボスさん。これ以上、大事な部下の手を煩わせることがなくなって、ほっとしたんじゃない?」
私は下半身を這い上る極彩色の生物から、必死で目をそらそうとした。だが、身体を締め付けながら喉元に迫ってくる不吉な動きは、私を絶望的の淵へと追いやりつつあった。
――もう、駄目だ。逃れられない!
蛇の頭部が脇の下をくぐって顔の前に現れた瞬間、私は死を覚悟した。蛇の口が大きく開き、赤い舌と鋭い牙が見えた、その時だった。
コン、という小さな音と共に蛇の頭部がのけぞったかと思うと、体を締め付けている強い力がふっと消えた。思わず下を向くと、のたうっている極彩色の体と、その傍らで鈍く光っているパチンコ玉が見えた。
「……やはり来たわね、嘘つき王子」
ファティマが忌々し気に吐き出した直後、私の手足を拘束していた鎖が、はじけるような音と共に切断された。はっとして周囲を見回すと、すぐ近くの物陰から見覚えのある横顔が闇を割って現れた。
「ご満悦のところ申し訳ないが、うちの大事なボスを返してもらうよ」
「結局、どうあってもあなたたちはボスを助けに来るってわけね。麗しい上司愛だわ」
「ちょうど近くを通りかかったんでね。……それより厚化粧を止めたら途端に悪い顔になったな、あんた」
「ふん、私を欺くとは可愛げのない男ね、まったく。もっと鈍い男だったらさぞ、もてたろうにね」
ファティマは嘲るような言葉を吐くと、どこからともなく小ぶりのスーツケースを取りだした。
「上司を選びそこなうと碌なことがないってことを、今、教えてあげるわ」
そう言うとファティマはスーツケースの蓋を開けた。同時にブウンという羽音に似た響きが屋上の空気を震わせた。
「なんだ?」
「……これはね、マイクロドローンよ。別名「ハニービィ」と言って、毒針で永遠の眠りをもたらすの。全部で十二体いるミツバチの攻撃をかわせる?テディベア」
ファティマが言い終えると、スーツケースから小鳥ほどの大きさの黒いドローンがゆっくりと飛び立つのが見えた。
「そいつと戦う前に、これをお返しするよ」
荻原はそう言い放つと、首のネックレスを外してファティマの方に放った。
「こいつについてるカメラとレコーダーが四六時中、回ってるんで、おちおちサボりにも行けやしない」
「お別れってわけね、テディ」
ファティマがひび割れた声で吐き捨てた瞬間、黒い塊が一斉に荻原の方に飛来し始めた。
「テディ、逃げて!」
「ボス、そこから動かないでください。こいつは熱源に反応します」
そんな、と私は絶句した。私に動くなという事は、自分が的になるということではないか。そう思った瞬間、私のポケットの中で、何かがはじける感触があった。中をあらためると、どういうわけか携帯電話の画面が割れ、煙が出ていた。
――これって、どういうこと?
少し考え、私はすぐ「あること」に思い当たった。私はドローンと格闘している荻原に一瞥をくれると、思い切って前に駆けだした。
「――ボス、だめだ!」
私が動いた瞬間、荻原の周囲を取り巻いていたドローンが一斉に、私の方に襲いかかってきた。
――テディ、お願い!
黒いミツバチが目の前に突っ込んできた瞬間、私は思わず目を閉じた。ほぼ同時にバチンという音がして、何かが床の上に落下した気配があった。目を開けると、一台のドローンがコンクリートの上で黒い煙を上げているのが見えた。
「ボス!」
テディが叫ぶと、それに合わせるかのように私の周囲のドローンが一台、また一台と火を噴き始めた。やった、と私は心の中で快哉を叫んだ。
テディの「機械を破壊する」能力は、直接、狙った物体を破壊することができない。だからドローンとは無関係の私の携帯が壊れたのだ。だが、私がピンチに陥ったとしたらどうだろう。無意識のうちに狙いが定まり、自動的に「敵」を撃破するのではないか――
それはまさに、いちかばちかの「賭け」だった。もしテディの能力が発動しなければ、私はドローンの毒針であの世行きだったに違いないからだ。
「くっ……貴様のボスはどうやら桁外れの馬鹿らしいな」
ファティマが悔し気に吐き捨てた、その時だった。何かが私の背中を突き飛ばし、私はコンクリートの上に倒れこんだ。
「痛っ……何?」
腹ばいになったまま顔を上げると、全身を毛で覆われた生き物が私に背を向け、うずくまっているのが見えた。
――あれは……猿?
猿と思しき生き物は、しばらく荻原と睨み合っていた。やがて、テディの顔からいきなり表情が消え、目から光が失われた。
――あの目だ!オフィスの闇の中で、私を動けなくさせた目だ!
「あはは、どう?ハマヌーンの催眠攻撃は」
ファティマは勝ち誇ったように言うと、荻原の前に何かを放った。冷たい音と共に荻原の足元に転がったのは、拳銃だった。
「さあ拾うのよ、テディ」
荻原は一切反応を示さぬまま、無言で拳銃を拾いあげた。
「それをあなたのボスに向けて、引鉄を引きなさい。テディ」
――嘘っ、嘘でしょ、テディ。
私が痛む体をさすりながら立ちあがると、荻原が何かに取り付かれたような表情で銃口をこちらに向けてきた。
「……そう。わかったわ。遠慮なく引鉄を引きなさい、テディ」
私はそう言うと、荻原の目を正面から見据えた。これが私の受ける報いなのだ。部下の手で死ねるのだから、よしとしなければ――
私が覚悟を決めた、その時だった。荻原の手が動き、私の前から銃身が動いた。荻原は銃を持った手をゆっくりと曲げると、銃口を自分のこめかみに押し当てた。
―駄目よ、テディ!
「……そうか、ボスを殺めるくらいなら自分の命を絶つか。いいだろう、やってみるがいい」
荻原の指が引鉄にかかり、一瞬、術にかかっているはずの目に苦悶の色が浮かんだ。
「だめ――っ」
私が叫んだ瞬間「ぎゃっ」という叫びとともに、目の前の猿がもんどりうつのが見えた。
「……えっ?」
見るとハマヌーンの体毛のあちこちから煙が上がり、それをもみ消そうとコンクリートに身体を擦りつけ、のたうっているのだった。
「どういうこと?」
私は荻原とハマヌーンとを交互に見た。するとほどなく荻原の両手がだらりと下がり、拳銃がごとりと重い音を立てて床の上に転がった。
「ええい、何事だっ」
ファティマが叫んだ瞬間、今度はファティマの髪から煙が立ち上った。
「うわあああっ」
絶叫とともに駆け出したファティマの背後から、染み出すように人影が現れた。
よく見ると人影はコンクリートの床から一メートルほどの高さに「浮いて」いた。
「これ以上、うちの同僚と上司をいじめるなら、私が相手をします」
声とともに姿を現したのは、眼鏡を外した古森だった。
「……ヒッキ!」
古森の両目は別人のように見開かれ、気のせいか色も金色に輝いているように思われた。
「ヒッキ!……「アンジェ」になったのか」
古森は荻原の意味不明の言葉に頷くと、風のように宙を舞ってハマヌーンの傍らに降り立った。そしてハマヌーンのつけている首輪を両手で掴むと、いきなり高く上昇した。
「貴様、一体何をする気だ!」
古森はファティマの声に耳を貸すことなく、ハマヌーンの身体をぶら下げたまま屋上の手摺りを超えて何もない空中へと移動した。
「このままお猿さんをダイビングさせたら、あなたの上司は何て言うかしら?」
古森の脅しは効果的だったらしく、ファティマの表情が一変した。
「今すぐこのビルから立ち去るのよ。そうしたらお猿さんを離してあげます」
そう言いながら古森の姿は徐々に下の方に移動し始め、やがて手摺の下へと消え去った。
「くそっ……この借りは必ず返すぞ、探偵。覚悟しておくがいい」
ファティマは悔し気な表情を露わにすると、くるりと踵を返して闇の中に姿を消した。
ファティマとハマヌーンまでが出てきた以上、もう逃げることはできないだろう。
蓬莱翁と対決しないとしても、浦野医師失踪事件の捜査は最終段階に入ったのだ。
「テディ……」
私はコンクリートの上に膝をついて呆然としている荻原の元に駆け寄った。
「ボス……ギャンブルもほどほどにしてください。もし俺がドローンを破壊できなかったらどうするつもりだったんですか」
「私はあなたと違って見込みのない賭けなんてしない。ちゃんと勝算があったわ」
「……まったく、パチンコの玉以上に予測がつかない上司だな」
「うふふ。もっと用ができない行動を取ってあげましょうか」
「なんです?」
「あなたを今から、わが社の職員として採用します。……返事は?」
荻原は一瞬、ぽかんとした顔つきになり、それからくっくっと笑い始めた。
「……承知しました。お受けします、ボス」
荻原はそう言って私に深々と一礼して見せた後、にやりと笑って親指を立てた。
〈第三十四回に続く〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます