第二十話 『ラブドール』③ 村寺芳夫
「なんでこんなものが」
同じアパートに住む誰かが捨てたのだろうか。よくこんなものを無造作に放置出来るものだ。
更に近付いて、ドールの顔を確認する。
整った顔立ち、少し垂れた愛嬌のある目、胸にかかる長い髪。
ハナに似ている。
そう思った直後、耐え難い嫌悪感が体中を駆け巡った。
正気の沙汰ではない。信じられないことに、今、私はこのハナに似ていると感じたラブドールを、自室に運び込みたい衝動に駆られている。
例え血の通わない人形であろうと、死へと導くこの凶悪な孤独を遠ざけてくれるのではないかと、そう考えている。
気付いた時には、ゴミ袋に埋もれて倒れていたドールを抱き上げていた。手の平に伝わる柔らかい感触に驚く。昨今のダッチワイフはこれほどにも精巧に作られているのか。
ドールの腰を掴む手に力が入り、長らく閉ざされていた女体への欲情が湧き上がってくる。
周囲に人がいない事を確認し、ドールを抱きしめたままアパートの階段を上った。
自宅に入り、バスルームの照明をつけた。
ドールに貼り付いた土をシャワーで落としながら、これは水洗いしても傷んだりしないものなのかなどと考える。
タオルで全身を拭き、ベッドに座らせた。
空間を見つめる裸のドールを眺める。
瞳、目、髪、見れば見るほどハナにそっくりだと思えてくる。小ぶりな乳房に視線を移した時、一糸纏わぬドールが不憫に思えた。
服を着せてあげなくては。そう思ったが、無論、女性用の服など持っていない。
再び家を出た私は、近くのコンビニへと足を運んだ。
コンビニに入ってすぐ、レジに目を向ける。アルバイトの若い女性が立っているのが見えて踵を返そうかと迷ったが、そのまま店内を進んでいく。
女性用の下着とストッキング、そしてTシャツを手に取りレジへ持っていく。定員の顔を一切見ず、会計を済ませてコンビニを出た。
入口前で店内の方へ振り返ると、レジを打った女性がスタッフルームから出てきたもう一人の女性店員と一緒に、怪訝な表情でこちらを見つめていた。
別に、おかしい事ではないだろう。今日から同棲を始める相手が訳あって動ける体ではないのだ。その人の為に、代わりに買い物に来ただけだ。そう考えた直後、私は孤独のあまりいよいよ狂ってきているのではないかと自我を疑った。
自宅に戻り、買って来た衣服をドールに着せる。
「これだと少し寒いかな。でも今夜はこれで我慢してくれ。すぐに服を用意するから」
物言わぬ人形に向かってそう声に出して驚いた。
話しかけてしまった。
私は、一体何がしたいのだ。貯金が尽きて死ぬまでの間、人間ではない、この人形に愛を注ぎ続けるつもりなのか。
これまでの人生、誠実に、一途に生きてきたつもりだ。その結果、辿り着いた今。
人形と暮らす生活を馬鹿らしく思うより、長らく追い求めてきた真実の愛をようやく手に入れたのだと考えた方が、残りの人生を健全に過ごせるような気がした。
ドールをベッドに寝かせ、私はソファーに横になった。眠りにつく前、もう一度ドールに向かって声をかけた。
「おやすみ、ハナ」
翌日から、『蜜柑色』に通う事を辞め、ドールのハナとの生活が始まった。
食事は二人分作り、ハナと一緒にテーブルを囲んだ。当然、消費される事のないハナの分の料理は、私が食事を終えた後に生ゴミ入れに捨てる。
三日後、ネットショップで購入した服が届いた。初めて『蜜柑色のハナ』と会った時に、彼女が着ていた水色のサマードレスによく似た服だ。
サマードレスを着たハナと一緒にテレビを見たり、食事をしたり、ベッドに寝転んだり、そんな日々を続けていく中で、私から見えている現実は遠ざかっていった。
一週間を過ぎたある日の夕方、買い物に出掛ける前に、ベッドに座るハナに話しかけた。
「買い物に行って来るよ。今日の夕飯は何がいい?」
人形らしく無言で佇むハナの顔を見つめる。
「そうだなぁ。今日はシチューにしようか。すぐに帰ってくるから」
人形なのだから、返事はしなくていい。それでも構わない。ハナとの会話は、いつも私の頭の中でしっかりと繰り広げられているのだ。私の容姿、性格、年収、それらの要素に不満をぶつけてくる事のない、都合の良い女性との会話が。
「じゃあ行って来るね」
そう言って玄関で靴を履いた時だった。
「いってらっしゃい」
か細い女性の声が耳に届いてから数秒間、私は静止した。
ゆっくりと振り向く。
ベッドに座ったままこちらを向いているハナと目が合う。
今のは、誰の声だ。
瞬きする事も忘れ、食い入るようにハナを見つめた。
大きく深呼吸をして、動揺を抑えながら考える。
きっと、隣の家だ。隣人が同じタイミングで出掛けようとして、同居者が放った声が聴こえたのだろう。
そう思い込みながら玄関のドアノブに手をかける。
「ヨシオさん、気をつけてね。わたし、待ってるから」
私の名前を呼ぶその声は、はっきりとベッドの方から聴こえた。
荒くなり始める呼吸を整えようと意識しながら、振り向かずに外へ出た。
スーパーでカゴに食材を入れながら、頭の中で自身に問いかけていた。
私は、本当に狂ってしまったのか。いや、もう十分狂っていたのだろう。しかし、おかしな事をしている自分を認識していた。まさか、幻聴が聴こえるほどにまで気が違っているのか。
自身の精神状態に不安を感じたのも束の間、もしハナの声が聴こえるのならば、これからの生活はもっと楽しくなるのではないかという期待が膨らんだ。
この際、幻聴でもなんでも構わない。とことん幻想に塗れる事で、先の短い人生を幸せに過ごすことを考えるべきだ。
自宅に戻り作ったシチューをテーブルに並べ、ハナを椅子に座らせた。
帰宅した時に『おかえり』とは聴こえなかったし、食事中もやはり声は聴こえない。
ハナと実際に会話出来るという淡い期待が崩れ去り、食事を終えてからハナの分のシチューを捨てる。
「風呂に入るよ」
服を脱ぎながらバスルームへ入ろうとした時だった。
「今日も一日、おつかれさま」
そう聴こえた瞬間、次は静止する事なく振り返り、椅子に座るハナを見た。
喋った。
いや、そうではない。私の言葉に対するハナの返事を、私自身が想像し、幻聴に変えているのだ。
それから日を追う毎に、ハナの返事が聴こえる回数が少しずつ増えていった。
彼女から話しかけてくる事はないが、私が何か声をかけると、決まって私がハナを見ていない時に声が聴こえてきた。
ハナを見つめている時に返事が聴こえないのは、私がまだハナの事を人間ではなく、ドールだと認識しているせいなのか。声に合わせてドールの口が動くイメージが出来ないからだろうか。
私はハナとの生活をより密度の高いものにするために、ハナに愛情を注ぎ続けた。
しかし、それも長くは続かなかった。
どんなに愛を注ごうと、どんなに声が聴こえようと、彼女が人間に変化する事はない。私の意識がどれだけ常軌を逸したところで、その事実は変わる事はないのだ。
ドールとの生活に虚しさを感じ始めたある夜、私は『蜜柑色のハナ』の名刺を眺めていた。
人間の肌が恋しい。そう思ってからすぐにスーツに着替える。
ハナの分だけ食事を作り、テーブルに料理を置いてハナを椅子に座らせる。
玄関に向かおうとした時、奇妙な視線を感じた。
椅子に座るハナを見る。
ハナの表情がいつもより曇って見えるのは、私が抱える歪な後ろめたさのせいだろう。
「ハナ、ちょっと、仕事に行ってくるよ。食事は外で済ませてくるから」
ハナは何も言わず、適当な口実を口にする私を見つめている。
靴を履き、ドアノブに手をかける。
「いってらっしゃい。がんばってね」
背後からそう聴こえて、自嘲した。ここで『こんな時簡にどこに行くの』などとハナに言わせないのが実に自分らしい。
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