第九話 『軍手』④ 柳隆也

 両手で黒木の首を掴もうとした。しかし、軍手は黒木の白い体をすり抜ける。


 息が出来ない。このままでは、マズい。


 掴む事は諦めて、黒木の顔を目掛けて思い切り拳を振った。


 靄をすり抜け空を切った拳を見て、死の接近を感じた。


 左手、右手、また左手。何度も交互に拳を振り続ける。


「隆さん、マジ何やってんすか」


 視界の隅に立ち尽くしている三原が見える。


 亡霊が見えない三原に助けを求めたところでどうにもならない。見えたところで、触れることすら出来ない相手をどうすることも出来ないだろう。


「お…… まえはいいか…… ら…… 金…… 探してろ」


 喉の力を振り絞り、声を出す。少しずつ意識が遠退いていくのが解る。


「いやいや、さすがのオレもそれはちょっと引くっていうか…… 遊んでないで一緒に探してくださいよ、金」


 三原がそう言ったのを聞いて、俺は心の中で軍手に向かって語りかけた。


 なぁ、今の聞いたかよ。こっちはこんなに必死だってのによぉ。ほんと鬱陶しいだろこいつ。おまえもそう思うだろ?黒木消したらよぉ、このクソガキすぐに池に送ってやるよ。だからな、頼むよ。


「おまえがくたばりやがれ!」


 そう叫びながらもう一度、黒木の首に手をかけた。


 軍手越しに冷たい感触が手の平に伝わる。


 腕に力を込めた。


 頭の中に浮かんでいた三原の馬鹿面を、生きる事への渇望が埋め尽くす。


 札束のプール、美味い酒、美味い料理、ベッドの上でよがる裸の女。


 首周りを覆っていた冷たい感触が消えてから、いつの間にか閉じていた目を開いた。黒木の姿はない。


 限界まで息を止めて潜っていた水中から顔を出したかの様に、口を大きく開いて息を吸い込んだ。


 天井を見上げながら呼吸を整えている間に、三原が近寄ってくる。


「大丈夫っすか? ホッサってやつですかね」


 ゆっくり上体を起こすと、青白いユキの死に顔が目に入った。


 こんなふうにされたくはない。冗談じゃない。


「……三原」


「はい?」


「道端によぉ、よく落ちてんの見るだろ」


「落ちてるって、なにがっすか?」


「これだよこれ」


 そう言って左の手の平を見せる。


「あぁ、軍手のことっすか」


「これ、なんで落ちてるか知ってるか?」


「さあ、知らないですけど」


「探してんだよ。持ち主を」


「はぁ…… そうっすか」


「地獄に人間の魂を送り込めるやつを探してんだ。俺はよ、パシらされてんだよ」


「よくわかんないすけど、なんか、隆さんもいろいろ大変なんすね」


 立ち上がって辺りを見渡す。とっとと金を見つけてから山へ行き、このクソガキを池に沈めよう。


「探すぞ、金」


 動こうとした時、目の前に再び白い靄が現れた。


 なんてことだ。軍手の効力が弱まっているせいに違いない。一発であの世に追い返す事が出来なくなっているのだ。


 この俺が、全力で逃げる事になる日が来るとは。


「車に戻るぞ三原ぁ!」


 そう叫んでから走り出す。


「は? もう帰るんすかー?」


 三原が答えた時、俺は既に家の外に出ていた。


 車のドアが開かない。キーは三原が持っている。


「早く来いこのクソガキが!」


「待ってくださいよ。金はいいんすか?」


 悠長に歩きながら三原がそう話す。


「いいから早く車に乗れ! 逃げんだよここから」


 尻に蹴りを入れると、三原は黙って運転席に乗り込みエンジンをかけた。


 助手席に座り、深呼吸をする。


 落ち着け。落ち着かなければ、逃げ切れない。


「いいか、山に向かえ。全力で飛ばせ」


「山? 山ってなんすか」


「いいから先に車出せ。走りながら説明する」


 三原がアクセルを踏み込み、車が前進する。


「デカい公園がある山だよ。その公園の中にある池に向かえ」


「あの公園、池なんかあるんすか?」


「もっと飛ばせ、出来る限り急げ」


「もう今日帰った方がよくないっすかね」


 窓の外に注意を払う。それから後部座席に首を振り、黒木がいないか確認する。


「なんか、隆さん疲れてんじゃないっすか? もう帰って寝た方がいいっすよ。オレも眠いですし」


「池に着いたら、たっぷり寝かせてやる」


「いや、池では寝ないっすけど。残業代、ちゃんと出してくだ……」


 三原が不自然に会話を中断した。フロントガラスに向けていた視線を運転席に移す。


 三原はハンドルから両手を離し、首を掴んで宙を見つめている。


 座席に重なり三原の首を絞める人型の靄が、こちらを見て不気味な笑みを浮かべた。


 車はスピードを出したまま、路肩に駐車している車に向かっていく。


 ハンドルの下に右足を突っ込み、ブレーキベダルを踏み込む。


 路肩の車のすぐ手前でなんとか停車した直後、亡霊となった黒木の顔面を殴りつける。拳に伝わる感触がなくなるまで、何度も拳を打ち込む。


 黒木の姿が消えたのを確認した後、動かなくなった三原の頬を叩く。


「おぉい。しっかりしろ! 死んでねーだろ、なぁ!」


 そうは言ってみたが、顔が青白く変色した三原を見て、既に生きてはいない事を悟った。

 三原を抱えて、後部座席へ放り込んだ。


 運転席に座り、アクセルを踏み込む。


 次に黒木が現れたら、間違いなく殺されるだろう。軍手の効力ももう限界だ。


 軍手の電池要員である三原は殺されてしまった。途中で誰かを誘拐するか、それが出来なければ山に誰か人がいる事に賭けるしかない。


 青信号が光る交差点が見えた。ここを越えた先の細道を道なりに進めば、山に着くはずだ。


 更に強くアクセルを踏んだ時、交差点にスーツを着た男が飛び出して来るのが見えた。


 もうブレーキを踏んでも間に合わない。仕事以外で人を殺すのは池にヤク中を沈めて以来だ。


 男を撥ね飛ばそうとした瞬間、女が視界に入り込んだ。


 男を突き飛ばした女の体に、車のフロントがめり込む。


 女が勢い良く宙に舞うのが見えた。


 間違いなく即死だろう。軍手の効力を戻して無事に黒木を撃退出来たとしても、今の事故現場を目撃したであろうスーツの男が通報したら面倒な事になる。


 ふざけやがって。


「クソが……クソがよぉ! どいつもこいつも勝手に死にやがって! 俺のために池で死にやがれ!」


 俺の叫びは、山奥へと続く細道の闇に吸い込まれていく。

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