第二十二話 『狐面』五田俊
窓を叩く無数の雨粒の向こうに、闇を纏った山々が聳え立っている。
こんな人気のない山奥にあるラブホテルが、廃業せずに存在し続けている事を不思議に思う。
人目につかない隠れ家を求む我々の様な輩は、意外と多くいるのかもしれない。
「こんなところにラブホテルがあったなんて知らなかった。君には関心するよ」
私がそう言って振り向くと、
「知り合いが教えてくれたの。不倫するにはちょうどいい場所だって」
「それにしても、こんな山奥にまで来ることはないんじゃないかな」
「どこで誰に見られているかわからないじゃない」
頭の中に浮かんだのは妻の
「あなたには子供はいないけど、わたしの息子はもう高校生になるのよ。疑り深い旦那もいるし、もっと慎重にならないと」
「そんなにいつも気を張っていたら疲れそうだ。俺には出来そうにない」
「あなたはそんな事しなくてもいいのよ。離婚さえしてくれれば」
「またその話か」
「あなたが一人になってくれたら、わたしはいつでも旦那と別れる準備は出来ているんだから」
会う度に仕事や旦那や他人についての愚痴しか話さない六つも年上の江美と、不倫を続けているのには訳がある。
私は自身の中に潜む異常な支配欲を自覚している。それは時にサディスティックな感情となり、欲情を滾らせる。これまでベッドの上で快楽を共にした女性の中で、江美は圧倒的に私の支配欲を満たしてくれる体と反応を持ち合わせていた。
しかし、沙苗と別れて江美と一緒になるつもりはない。
バスルームへと向かう私の腕を、江美が掴んだ。バッグから取り出した縄を差し出してくる。
「次は縛ってよ」
「そろそろ帰らないと。シャワーを浴びてくる」
勢いが弱く温いシャワーを浴びながら思い耽った。
大手小売企業の営業企画部に所属している私はある日、チェーン展開している店舗の視察へと向かった。その店でパートとして働いている江美と出会ったのがちょうど一年前の事だ。
変わり映えのない毎日と刺激のない結婚生活が物足りなくなっていた私達は、月に一度の頻度で会う様になり、日頃のストレスを発散させていた。
しかしここのところ、江美が私に妻と別れるように要求してくる事が多くなった。
沙苗と別れる気はないが、江美といつまでもこんな関係を続けている訳にもいかないだろう。面倒な事にならないうちに別れた方がいい。もう、潮時だ。
ホテルを出ると相変わらず雨は降り続けていて激しさを増していた。不気味な山奥から逃げる様に車を走らせ、街へと戻る。
駅から少し離れた人気のない場所で車を停める。
「雨も強いし、今日は駅まで乗っていた方がいいんじゃないか?」
「いつも通り、ここでいいの。どこで誰が見てるかわからないでしょ」
「君はいつもそればかりだな」
「ふふ、おやすみ」
雨の中、傘を差して歩いていく江美がサイドミラーに映る。
おそらく、江美と会うのは次が最後になるだろう。それまでに体の良い別れの口実を考えておかなければ。
自宅の車庫に車を停め、玄関のドアを開けると廊下の電気がついた。
「
「沙苗。起きてたのか。今日は遅くなるから、先に寝てていいって言ったのに」
「うん。それがね、今日友達に料理教えてもらったの。張り切って作っちゃったから、その、なんていうか、自信作?」
「へぇ、それは楽しみだね」
「一緒に食べよ」
「一緒にって、食べずに待ってたのか?」
「うん。自信作だから、一緒に食べたくて」
沙苗は嫁としては申し分のない女性だ。しかし、ベッドの上で乱暴に扱われる事を酷く嫌う。歪んだ性癖を持っていない他の男から見れば、本当に非の打ち所のない女なのだろう。
豪勢な料理が並ぶテーブルを挟み、食事をしながら沙苗が嬉しそうに話す。
「どう?」
「美味しいよ。美味しいけど、こんな時間に食べて大丈夫か? 体重気にしてたろ」
「今日はいいの。こんなの一人で食べても寂しいだけじゃん。それより、明日も帰り遅くなる?」
「どうだろう。明日は早めに帰ってこれると思うけど、遅くなりそうならまた連絡入れるよ」
「うん、わかった」
食事を終えて、バスルームへと向かう。さっきシャワーを浴びたばかりだが、それは沙苗が知る事ではない。このまま寝室へ向かえば怪しまれてしまう。
「先に寝てていいよ」
「こんなに食べてすぐ寝たらやばいよね。明日の朝、横にお相撲さんが寝てたらどうする?」
「大丈夫だよ。そんなに急には太らない」
勢いが強く熱いシャワーを浴びながら思い耽った。
いつも通りの一日が終わろうとしている。
尽くしてくれる愛嬌のある妻、高級車、マイホーム、欲しいと思っていた物は手に入れてきた。それなのに物足りなさを感じる毎日。まだ何かを強く欲している。子供ではない。子供を作る気はまだない。他に一体何を欲しているのかが解らない。心の奥で蠢くのは、歪な支配欲。この欲を満たす為に、何を成さねばならないのかがずっと掴めずにいる。
シャワーを終えて寝室に行くと、沙苗の姿はなかった。
腰にタオルを巻いたままの姿でリビングへ向かう。
「沙苗?」
名前を呼ぶが返事はない。
玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
玄関へ行くと、雨に濡れた沙苗が呆然とした表情で立っていた。
「どうしたんだ。びしょ濡れじゃないか」
私が声をかけても、沙苗は表情を変える事なく黙ったまま私を見つめている。
「……沙苗? 何かあったのか?」
「なにしてたの?」
「何って、シャワーを浴びてたんだけど」
「ずっと?」
「ああ、ついさっきまで」
「外にいた?」
「外?」
「外にいたよね? 寝室の窓から見えたから。雨に濡れて立ってる俊が」
「なんだって?」
「私びっくりして、すぐ外に出たんだけど、俊、いなくなってて」
「ちょっと待ってくれ。俺は外になんか出てないよ。シャワー浴びてたんだから」
「うそだ……絶対、俊だったよ? スーツ着たまま、雨の中立ってた。こっち見てたもん」
「見間違いだよ」
「絶対違う! 絶対、俊だった」
声を荒げ始めた沙苗を抱きしめる。『いつも通りの一日』とはいかなかった様だ。最近、帰りが遅くなる日が多すぎたせいだろう。押さえ込んでいた寂しさが、沙苗自身に幻覚を見せたのかもしれない。
「俺はここにいるよ。ごめんな、俺が寂しくさせたせいだ。明日は早く帰ってくるから、久しぶりに一緒に何か食べにでも行こう」
「ほんとに見間違いかな? ……こわいよ」
「大丈夫。さぁ、もう寝よう」
今、沙苗を不安にさせる訳にはいかない。江美との関係を完全に絶つまでは、細心の注意を払わなければ。不安はあっという間に疑心に変わり、江美の存在を勘ぐられてしまう可能性がある。
「沙苗、愛してるよ」
「何? 急に」
「早くシャワー浴びなきゃ、風邪ひいちゃうよ」
「うん、浴びてくる。俊?」
「ん?」
「わたしも愛してる」
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