第二十三話 『狐面』② 五田俊
翌日、午前中の会議を終えた私は、午後から社内にある商談ブースで化粧品メーカーとの打ち合わせを進めていた。様々なメーカーの人間が次々と入れ替わり、新商品の紹介や店舗展開についての話を繰り出してくる。
私はここへ入社してから、異例の速さで営業企画部の主任へと昇格した。大きな企業を動かしているという実感を欲し、昇進するためにどんなにハードなスケジュールであろうが、波のように押し寄せる仕事をこなしてきた。使えない部下に心無い言葉を吐き捨てた事もあった。
しかし、私が欲していた実感は昇進する度に遠ざかって行った。どんなに昇格したところで自分は所詮、会社の駒に過ぎないのだと感じる事が増えてきたのだ。こうなってしまえば、刺激のない毎日が更に虚しいものになるまでに時間は要さなかった。
幼少の頃、己の野望のために寺を焼き払い、老若男女問わず首を跳ねた戦国武将がいた事を知った。そして、強く憧れを抱いたのを覚えている。それほどの大それた行動を起こす事が出来れば、私の異常な支配欲も満たされるのだろうか。
「失礼します。はじめまして」
ブースの外に立っている女性の声で我に返った。
「アレプ化粧品の
「どうも。営業企画部の
挨拶をした後、交換した名刺を確認する。『営業部
麻紀と商談を進めていくうちに、彼女がまだ新人であることが解った。それなのに、終始はっきりとした口調で臆する事なく商品展開の提案を出してくる。
こういう気の強い女性は嫌いではない。
そう思った時、江美と始めて会った時の事を思いだした。彼女と初めて話した時も、かなり気の強い女性だと感じたのを覚えている。
私の中で、おおよそ職場で考えるべきではない、良からぬ感情が芽生え始める。
気の強い年上の女性を虐げる事には飽きた。たまには若い子もいいんじゃないか。
商談を終えた頃、退社時間が近付いていた。
「今日の仕事はこれで終わり? 良かったら今晩、食事でもどうですか」
「え?」
「来月のキャンペーンについての話も進めたいし」
「……そうですね。ええ、是非」
「良かった。私はまだ少しだけ仕事が残っているので、外で待っててくれませんか。仕事が終わったら携帯に連絡を入れますので、それから地下の駐車場に来てください」
女性に食事の誘いを断られた事はない。予約なしでも入れるそこそこのグレードのレストランはいくつか知っている。
私は残していた仕事を早々と終え、地下の駐車場へ向かった。
車に乗り込み、麻紀に電話をかける。
「もしもし。お待たせしてすみません。今、駐車場の車にいますので、来てください」
麻紀からの返事がない。
「もしもし? 東条さん?」
「あっ、はい。ごめんなさい。今、会社の駐車場ですか?」
「ええ、そうです」
またしばらく間が空く。どうもレスポンスが良くない。電波が悪いのだろうか。
「わかりました。すみません、今から向かいますね」
通話を終えた後、十分ほどしてから麻紀が走ってくるのが見えた。ウィンドウから身を乗り出し、手を振る。
「ほんとにすみません、お待たせしてしまって」
助手席に乗り込んだ麻紀が、息を切らしながらそう話した。
「どうしたの? どこか行ってた?」
「いえ、違うんですよ。もうほんと笑っちゃいますよ」
「どういうこと?」
「会社の前で待ってたんですけど、ごめんなさい。ほんとそっくりで」
『そっくり』というワードが麻紀の口から飛び出した事で、的中して欲しくない予想が頭に浮かぶ。
「そっくり…… って?」
「五田さんによく似た人を見かけて、ほんとによく似ていたんで、私、五田さんだと思っちゃって」
「そんな似ている人、会社にいたかな」
「ごめんなさい。その人、わたしと目が合ったんですけど、何も言わずに駅の方へ歩いて行くんで、追いかけちゃったんですよ。そしたら、五田さんから電話かかってきて」
「先に電話くれたら、人違いだってすぐにわかったのに」
「そうですよね。もう、本人だと思い込んじゃってたので。すみません、失礼ですよねこんな話」
知らずのうちに神妙な面持ちになっていた私に気付いた麻紀は、浮かべていた笑顔を消した。
妙な事もあるものだ。
この世には自分と全く同じ容姿を持った人間が三人存在していて、それを『ドッペルゲンガー』と呼ぶらしいが、それが私の近くに現れたとでも言うのだろうか。昨晩、沙苗が目撃したのもそいつなのだろうか。
レストランに入り、食事をしながら麻紀との時間を過ごす。
「ごめんね。予約なしだと、こんなレストランしかなくて」
「いえそんな、とんでもないです。ここ、料理も美味しいですし」
「一階だと綺麗な夜景も見えないな」
「そんな事ないですよ。あの橋の明かりとか、とっても綺麗じゃないですか」
窓の外には川が広がっている。川沿いの遊歩道から延びる橋が見える景色を気に入ってくれたようだ。
「それより、なんかすみません。私だけ、お酒飲んじゃって」
「無理矢理飲ませたようなもんだから。ちゃんと送るし、気にしないで飲んで」
「ありがとうございます」
ここから麻紀をどうやってホテルに連れて行くか、景色を眺めながら算段を立てる。
夜のウォーキングに興じる人達が行き交う遊歩道で、一人だけこっちを向いて立ち止まっている男に気が付いた。
心臓が激しく音を立てた。
窓に映った自分ではない。
川沿いの遊歩道に立っているその男は、まるで鏡を見ているかの様だ。
「そんな……」
思わず身を乗り出す。
立っていた男は行き交う人々の波に飲まれ、いつの間にか姿を消していた。
「どうかしたんですか?」
グラスに注がれたワインを飲み干した麻紀が様子を伺ってくる。
「いや、驚いたな。今そこに……」
携帯電話が震え出した。ディスプレイを確認する。
江美からの着信だった。
「ちょっと失礼」
麻紀に声をかけた後、化粧室に移動して通話を開始する。
「なんだ」
「今から会えない?」
「仕事中は電話してこない約束だったはずだけど」
「家にいる時だと、奥さんが携帯見ちゃうかもしれないじゃない」
「沙苗は俺の携帯を勝手に見るような事はしない」
「信頼されてるのね」
「ああ、君の旦那とは違うからな」
「ねえ、どうしても今日会いたいの」
「昨日会ったばかりだろ」
「今晩はホテルじゃなくていいから。ドライブに連れていって欲しいの。お願い」
実に不愉快だ。
そう思い、江美の誘いを一蹴しようとしたが考え直した。下手に機嫌を損ねて、これ以上大胆な行動に出られたらたまったものじゃない。
麻紀をこのまま帰してしまうのは惜しいが、まだチャンスはいくらでもある。それより、早急に江美との関係を終わらせなければ。
「わかったよ。仕事が終わったら迎えに行く。今どこにいるんだ?」
「ありがと。駅から少し離れたいつもの場所で待ってるから」
江美が電話を切った後、苛立ちを抑えながら化粧室を出た。
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