第四十三話 『除呪』星野魁
そう、あれは受験勉強に勤しんでいた時の事だ。
生まれて初めて死ぬ気で勉強に没頭した僕は、人間の脳は短期間でも膨大な情報や知識を取り込む事が可能なのだと知った。
しかし、他人の記憶を一瞬で吸収するなんて、さすがに不可能なはずだ。
成海に擬態していたあの男が僕に襲い掛かった時、一体僕に何が起こったのか。
僕の足にしがみついた男を
不意に僕の手が男の持つ狐の面に触れた瞬間、僕の意識はあの男の記憶の渦に飲み込まれた。
車の後部座席で息耐える女の顔。畏怖の込められた目で睨みつける黄色のカーディガンを着た女の子。苦悶の表情に塗れて地に伏す成海。
この公園に蔓延する死者の念に支配された男の心情と共に、様々な情景が目まぐるしく脳に流れ込んで来た。
あの男、
僕たちが現世に生きて戻る為に呪物を浄化しようと行動しているのに対し、五田俊は呪物を集めて浄化の阻止を目論んでいる。
成海は五田俊の持つ呪物によって殺されてしまった。そして狐面を使って成海の記憶を取り込み、成海に姿を変えて僕らの前に現れた。茜さんの持っている日本人形を奪う為に。
「
ここで全てを説明している暇はない。
五田俊が邪魔をしてくる前に、早く呪物を浄化しなければ。
「あの男の持っていた呪物に触ったんです。それで、見えたんです。あいつが呪物を使って成海を殺すところが」
「そんな……」
「取り乱してしまってすみません。詳しくは後で話します。今は早く管理小屋に向かいましょう。由良さんが辿り着いているかもしれないですし」
僕が立ち上がると、茜さんは五田俊が追いかけて来ていないか確認した。
「大丈夫? 走れそう?」
「平気です。行きましょう」
一刻も早く由良さんに、五田俊についての情報を伝えなければいけない。
あいつが狐面を使い、僕の姿に化けて由良さんに接近する事もありえる。
遊歩道を北へ走り続けると、ようやく管理小屋に辿り着いた。
「由良さん!」
名を呼びながら茜さんが小屋のドアを開けると、思いもしなかった光景が飛び込む。
小屋の中で座り込む二人の男女。
五田俊に万年筆を奪われた
「君たち、大丈夫!? 怪我はない?」
茜さんが声をかけるが、二人とも不安な表情を浮かべたまま返事をしない。
突然現れた僕たちに警戒しているようだ。
「あっ、それ……」
峰川志織が不意に声をあげた。
彼女の視線の先には、茜さんが握り締めるピンク色のスマートフォンと万年筆がある。
「なに? これに見覚えがあるの?」
茜さんが質問するが二人は黙っている。
「茜さん、そのスマホは成海の物です。呪物じゃないです」
「そうなの?」
「本当の呪物はその万年筆です。さっきの男がその女の子から奪い取った物です」
「じゃあ、もともとこの子が持ってたってこと?」
僕が頷くと茜さんはスマートフォンと万年筆を床に置き、峰川志織の手を握った。
「ねぇ、これがどんな物かは解ってる? 答えて欲しいの。これを…… この万年筆を使った?」
二人は俯いたまま何も言わない。
僕はその答えを知っているが、今度は二人が話し出すのを待った。
「もしこれを使ったのなら、お祓いしなくちゃいけない。そうしないと、このおかしな世界から抜け出せなくなっちゃうの。だからお願い。教えて」
茜さんの言葉が、僕の心に引っ掛かった。
『呪物を使えばここから出られなくなる』という情報は、五田俊の記憶には含まれていなかった。
「茜さん、お祓いって?」
「……成海さんや魁くんを不安にさせたくなくて、黙ってたんだけど。呪物を浄化してこの世界を現世から引き離しても、呪物を使った人は戻れないの。だから、呪物を浄化する前に、呪物と使用者を繋ぐ呪いを断ち切らなきゃいけない」
押し寄せる不安に鼓動が激しくなる。
僕は五田俊の持つ狐面に触れた。それは呪物を『使用』した事になるのだろうか。
絶望を宿したであろう僕の表情を見て心中を察したのだろう。茜さんが優しく話しかけてくる。
「安心して。由良さんを見つけたら一緒にあの男から狐の面を奪って、魁くんもちゃんとお祓いするから」
茜さんの目に強い決意を感じた。その表情から、『お祓い』が決して簡単なものではない事が伺える。
「羽白くんを……」
峰川志織が口を開いた。
「彼をお祓いしてあげてください。お願いします」
「あなたもこれを使ったんだね」
「……はい」
「大丈夫だよ。二人とも一緒に助けるから。待ってて」
茜さんはそう言って小屋の外へ出た。
しばらくして、葉が何枚かついた枝を持って戻ってきた。
「二人とも、もっと近付いて」
寄り添うように座った二人の前に万年筆を置いた後、枝の先を親指に近付ける。
「んっ……」
小さく呻いた茜さんの親指の腹に、尖った枝の先がめり込む。
指から流れ落ちる血が、枝についた葉に降りかかった。
目を閉じた茜さんが二人に向けて枝を左右に振り始める。
昔、近所にある神社で行われた祭りの行事で見たような光景だ。明らかに違うのは、人の血液が使われている点だろう。
無言で枝を振っていた茜さんの呼吸が乱れ始める。
「血が足りない」
小さく呟いてから、再び枝の先を指に近付ける。
今度は人差指につけられた傷から、新たな血が流れ落ちる。
「絶対…… 助けるから」
枝を握った指から血が滲み、額から汗が溢れ出す。
まるで全力疾走しているかのように息を荒げる茜さんは、枝を振っては指を切りつけ血を追加するという工程を繰り返した。
中指、薬指、小指。
片手の五指全てに傷がつけられた頃、力無く膝をつく。
「茜さん!」
側に駆け寄ろうとした僕に傷だらけの手の平が向けられる。
無言の制止を受けた僕は、ゆっくり立ち上がろうとする茜さんを見守る事しか出来なかった。
もう片方の手に枝が向けられる。
「うぅ…… 絶対、大丈夫。大丈夫だから。やるんだ。やらなきゃ……
二本目の親指から流れ落ちる血が、葉を赤く染めていく。
羽白の手を握り締めている峰川志織の瞳は、涙を潤ませている。
やがて両手の指全てに傷がつけられ、枝が振られる度に葉に付着した血が飛び散るのが見えた。
聞いているだけで苦しくなるような呼吸音。
重量のある鉄の棒を振るかのように、枝を振る度に全身が左右に大きく揺れる。
「もう…… 少し」
手の平に枝が突き刺さる。
衝撃で先が折れたが、根本を握り締めてもう一度刺す。
手の平に差し込んだ枝を更に押し込みながら、少しずつ横に動かす。
「ああああっ!」
「茜さん! もうそれ以上は!」
「これが、私に出来る事だから。由良さんが、教えてくれたんだよ。『普通の人と同じ生き方が出来ないのなら、人と違った生き方もある』って。これが、私に出来る生き方なんだ」
大きく開いた傷から血が滴る。両手で握り締めた枝が力強く空を切る。
徐々に枝のふり幅が狭くなり、やがて動きを止めた。
直後、茜さんは重力に吸い寄せられるように床に倒れ込んだ。
「茜さん!」
肩を掴み、顔を覗き込む。
茜さんが薄らと目を開け、声を振り絞った。
「終わったよ…… もう大丈夫……だよ。次は、魁くん……も」
目を閉じて動かなくなった茜さんから、僅かに呼吸音が聞こえた。
力尽きて死んでしまった訳じゃない。それが解り、一先ず安堵する。
死力を尽くして気絶する茜さんを心配そうに眺める二人に声をかける。
「もう大丈夫だってさ。無事に戻れるよ」
「ありがとうございます」
羽白がそう口にすると、峰川志織は堰を切ったように泣き始めた。
二人を救い、静かに眠るこの女性が一体何者なのかは知らない。
だが、この人は由良さんと一緒に、こうやって人を救う事を繰り返して来たのだろう。
きっと辛く困難な日々だったに違いない。
危険を顧みず誰かを救おうとする意志。
不意の事故に怯えて車の運転すら出来ない臆病な僕なんかには、到底考えられない勇気。
茜さんが気を失ってしまったこの状況は、僕が現世に戻れなくなってしまった事を意味している。
だからって、どうするんだ。
身を捧げて二人を守った茜さんを叩き起こし、僕も助けて下さいよと懇願するのか。
僕はいつからそんなにヘたれになったんだ。
きっと昌樹も笑ってる。いつもみたいに、『魁、ビビり過ぎだろ』って。
床の万年筆と、成海のリュックを拾い上げる。
「もうしばらくしたら、もとの世界に戻るから。それまで二人にお願いがあるんだ」
「なんですか?」
泣き続ける峰川志織の手を握り締めた羽白が返事をする。
「この人を、茜さんを見ててあげてくれないかな。もし目を覚ましたら伝えて欲しい。『後は僕と由良さんに任せて、ここで待っててください』って」
「わかりました。必ず、そう伝えます」
「ありがとう」
小屋を出て、空を見上げた。
北にある展望台から光が見える。
五田俊から流れ込んだ記憶の引き出しを開けていく。
あそこに、『天』への入口がある。
僕が呪物をあそこへ持っていけば、五田俊が浄化を阻止する為に現れる可能性は高い。
返り討ちにしてあいつの持っている呪物を奪い、まとめて『天』に放り込んでやる。
僕には勝算がある。
昌樹と成海の死を無駄にするつもりはない。
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