第四十四話 『生者と亡者』由良貴信

 どうやら急がねばならない。


 パークセンターを出た後、展望台の光が最初に見た時よりも弱くなっている事に気が付いた。


『天』への入口が閉じかけている。


 もう公園を一周して呪物を集めている猶予はない。


 茜の持っている日本人形と私が入手した軍手を浄化して、少しでも呪いの力を弱めなければ。


 亡者に注意を払いながら、管理小屋へと向かう。


 もしもの時の為、パークセンターで息絶えた男性から受け取った軍手をはめていた。


 この軍手を使うつもりはないが、大勢の亡者に囲まれた場合、逃げ切れない可能性がある。呪物を使用して現世に戻れなくなる事を懸念するあまり、亡者によって殺されてしまっては元も子もない。


 展望台への登山道は、管理小屋のすぐ北にあるはずだ。


 茜たちが無事に小屋に到着してくれている事を願う。





 警戒しながら池の北にある遊歩道を走っていると、僅かに耳鳴りが聞こえた。


 焦る気持ちを抑えて立ち止まる。


 近くに存在する呪物を感知して回収に向かおうとした時、立ち止まっているにも関わらず耳鳴りが大きくなっていくのが解った。


 池がある南の森から、呪いを発している呪物を所持した何者かが接近して来ているのか。


 森の中に目を凝らす。


 やがて木々の間から姿を現した人物は、一瞬の安堵と共に強烈な違和感を与えて来た。


「……かいくん?」


 茜と成海の姿はない。


 星野魁だけが激しい耳鳴りを連れて近付いて来た。


「由良さん。良かった、無事だったんですね」


 その姿は間違いなく星野魁だった。


 しかし、赤く染まった左目と、彼を包み込む禍々しい雰囲気が私の中に疑心を生み出した。


 頭痛を引き起こす程の耳鳴りが鳴り止まない。


 並みの呪力ではない『何か』を纏う魁から距離を離す。


「魁くん…… 一体、どうしたんだ。呪物を持ってるのか?」


「そうなんです。これに呪いをかけられてしまいました」


 魁が差し出したのは古いガラパゴス携帯だ。手に取らずとも、それが本当に呪物である事は明白だった。


「由良さん、助けてください」


 魁は話しながらゆっくりと距離を縮めてくる。


「茜さんから聞きました。……何か、呪物の呪いを跳ね返す物を持っているんですよね? それが何かは教えてくれなかったんですが。お願いします、それを僕にください」


 八芒星のネックレスの事を言っているのか。


 呪物の呪いを反射する物を所持している事を茜が伝えたのか。だとしたら、それが『ネックレス』である事だけを伏せたのが不可解だ。


「早く…… 渡してくださいよぉ」


 にじり寄る魁の右半身が、黒く滲んでいく。


 凝視すると、魁の顔の黒く滲んだ部分に見知らぬ誰かの表情を捉えた。


「……誰だ? 魁くんじゃないな」


「早くしろおおおおっ!」


 魁に姿を変えた何者かが、狂ったように声を上げた。


「それ以上、近付くな」


 私の言葉に不気味な笑みを浮かべた何者かは、ゆっくりと後ろに手をやった。


 背中に伸びた手に掴まれて現れたのは、狐の面だ。


 顔に狐面を重ねると、魁に擬態していた何者かが正体を現す。


 左目が血に染まり、胸に大きな傷を負ったスーツ姿の男だ。


「邪魔はさせない。おまえには死んでもらう」


 殺意を剥き出しにした男を前にして、煙草を取り出し火をつける。


 四方に激しく歪み全く匂いのしない煙が、この男がただの人間ではない事を示していた。


 亡者と同じ性質。それも一体や二体ではない。測りきれない程の巨大な怨念の呪力。


「亡者の念に飲み込まれたのか。操られているな」


「操られている? 違うな。俺が操るんだ。敗北者達を救済し、楽園の王となって全てを支配する。俺自身の意志だ」


「残念ながら、あんたは王様にはなれない。担ぎ上げられているだけだ」


「今は理解出来なくてもいい。呪物によって死に、亡者になればおまえも俺を崇める事になる」


「あんたはまだ生きている。まだ亡者に成り切ってはいない。今ならまだ間に合う。これまでの人生を思い出すんだ」


「この世に生まれた時から俺はこうだったよ。ずっと何かを欲していたが、いつまでもそれが掴めなかった。手に入るのは一時の欲求を満たすだけのつまらない物ばかり。だが、ここに来て解ったんだ。俺が求めていたのは何もかも全てを支配する事。実に単純な事だった。たったそれだけの事に気付くのに、随分と長い時間を要したよ」


「人として生きる事を捨てるのか」


「俺はもう、人として生きる事は出来ない」


「普通の人と同じ生き方が出来ないのなら、人と違った生き方もある」


「そんなものが本当にあるなら、自殺者たちの楽園なんて生まれるはずがないだろう。笑わせるな」


 男が空を指差した。


「あれを見てみろ」


 夕焼け色の空を、真っ黒な無数の人影が飛び去って行く。


 かつて折山夕子がこんな光景を見たと、折山陽子の手紙にそう記されていたのを思い出す。


 展望台に向かって飛んでいく黒い人影を実際に目撃し、重大な事実に気付く。


 『天』への入口を塞ぐ為、公園に存在する怨念だけでは足らず、現世の街から命を落とした者の魂を呼び寄せているのか。


「亡者たちの声が聞こえる。おまえにも聞こえないか? 『黄泉への扉のかせとなります、黄泉へのたがへ身を捧げます』と」


 男が大きく一歩前進したのを見て、身構える。


 狐面を掴む男の手。薬指にはめられた結婚指輪が見える。


「結婚しているのか」


「それが、どうした?」


「大切な人がいるのに、どうしてこんなことを」


「大切? 沙苗がか? あいつも『一時の欲求を満たすだけのつまらない物』のひとつに過ぎない。俺にとって大切なのは、俺の中にある底無しの支配欲だけだ」


「もう一度言う。人として生きるんだ」


「おまえも俺の欲求の糧にしてやる」


 飛び掛って来た男を押しのけようとしたが、胸座を掴まれて倒れ込む。


 無数の亡者がこの男に力を与えているのか、圧倒的なその腕力は明らかに人間離れしていた。


 馬乗りになった男が掴んでいる狐面に触れる。


 怨念の釜となった男の記憶と心情が流れ込んで来る。


 掴んでいた狐面を投げ捨てた五田いつだすぐるは、私のネックレスに手を伸ばした。


「こいつが邪魔な『お守り』か」


 引き千切ったネックレスを投げ捨てた後、五田俊は片手で私の首を掴んで押さえ込みながらガラパゴス携帯を取り出した。


 携帯のディスプレイを私の眼前に向ける。


「おまえも知っているだろう。亡者は生きている者の首を絞めて殺す。無様なおまえに選択肢をやろう。このまま俺に首を絞められて殺されるか、この呪語を読み上げて亡者となるか」


 五田俊の手の平が首を強く締め付ける。


「苦しいだろ? これを読めば楽に死ねるぞ。さぁ、読め」


 五田俊に向かって手を伸ばすが、ガラパゴス携帯を持った腕で激しく振り払われる。


「その軍手は呪物だな。亡者に触れる呪物とは面白い。王になった後、俺に歯向かった奴はそれを使って首を絞めてやろう」


 この状況を打開する手は、最早ひとつしかない。


 それはこの男が提示した選択肢のどちらよりも、決断し難い手段だった。


 だが、ここで私が朽ち果てれば、もう誰もこの男を止める者はいなくなってしまう。


 意を決した私は、手の平を広げて肩の横に並べた。


「なんだ? 降参の合図か? 今更遅いんだよ。おまえももう人として生きられない」


 消え行く力を掻き集めた両手を五田俊の胸に突き刺した。


 軍手をはめている手が、五田俊の胸の中に入り込む。


 この呪物の性質を読み取った時、この軍手には亡者に触れる事が出来るという力の他に、念じる事で物質をすり抜ける効力がある事が解った。


 この男は狐面の力によって私の記憶を読み取り、軍手の効力を知り得た。しかし、組み伏せた私に勝利を確信して完全に油断していた。


 私の両手は今、五田俊の心臓の感触を捉えている。


 指先に意識を集中させる。


「うごっ……!」


 憑依した亡者の怨念を吐き出すように、五田俊の口から激痛を知らせる叫び声が飛び出す。


 ゆっくりと心臓を握り締める。


 全身に血液を送るポンプとしての機能を弱めた心臓が、五田俊の意識を朦朧とさせた。


 私の首から手を離した五田俊の胸から腕を引き抜く。


 呼吸困難に陥り倒れ込む五田俊を前にして立ち上がる。


 この男は既に二人の人間を殺害している。


 許される事ではない。


 心臓を握り潰す事も考えた。


 だが、それを実行する事は出来なかった。


『生きている者が生きていく世界』を実現する為、犠牲となった人達の思念。彼を殺す事は、その思念に油を注ぐ行為であると感じたからだ。


 五田俊はあらゆる呪物を使用した。もう現世に戻れない可能性は極めて高いだろう。


 それでも呪物によって命を落とし亡者になるよりも、他の亡者達と共に『天』へと浄化された方が、救いがあるのではないだろうか。


 彼と同じく、私も呪物を使用した。


 もう現世に戻る事は叶わない。


 命を賭して呪物を浄化し、先生と共にこの楽園を現世から引き離す事が私の使命だ。


 地面に落ちた狐面とガラパゴス携帯、そして八芒星のネックレスを拾い上げ、私は管理小屋を目指して走り出した。


 空には展望台を目指して飛ぶ黒い人影が見える。


 遊歩道を横切る亡者の集団が見えた。


 最早こっちには見向きもせずに、展望台へと向かっているようだ。


 本来、浄化される事を怖れる亡者は『天』への入口には近付かないはずだ。黒い影と共に自ら展望台に向かっているこの光景に、とてつもなく悪い予感が体を包み込む。


 全てを絶望に陥れる恐るべき事態が起ころうとしている。


 展望台に見える光は徐々にその輝きを失って行く。


 残されている時間はもう僅かだ。

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