第四十五話 『贖罪』折山夕子

 公園を一望出来るこの景色が大好きだった。


 幼い頃、父と陽子と私、三人でこの展望台に来た時既に、私はこの公園に潜む亡者たちに見初められていたのだ。


 現世を飲み込む準備を着々と進めていた亡者たちは、幼い私を現世と楽園を繋ぐ『扉』に選んだ。


 そして『扉』を開くための『鍵』に選ばれた陽子と一緒に、この楽園と現世を融合させるはずだった。


 でも、誰かが私たちに呼びかけた。


 その声は亡者の思念に埋もれた私たちの意識を呼び起こした。


 気が付くと、夕焼けの空の中で浮かんでいた。下には『天』への入口が光る展望台が見える。


 隣で浮かぶ陽子も、私と一緒に意識を取り戻したようだ。


「本当の事を教えてください」


 私たちの前に浮かぶ女性が語りかけてくる。


 見知らぬこの女性がいなければ、亡者に意識を奪われた私たちは現世の全てを飲み込んでいただろう。


 だが、私たちはこの女性の声で目を覚まし、楽園は公園を飲み込むのに留まった。


「陽子さんから手紙を頂きました。あの手紙に書かれていなかった、真実を教えて欲しいのです」


女性の呼び掛けに応じ、陽子が祈るような眼差しで私を見た。


「お姉ちゃん、私、全部思い出したの。自分が自分でなくなっちゃいそうになりながらなんとか意識を保って手紙を書いていた時に、思い出したんだよ」


 陽子が何を思い出したのか、私には解っていた。


 出来れば、ずっと忘れたままでいて欲しかった記憶。


「小さかった頃、お姉ちゃんが私に隠していた事、私知ってたんだ」


 精神が不安定になり、暴力を振るっていた母。


 父だけは私たちに優しかった。陽子にはそう思っていて欲しかった。


「お姉ちゃんがお父さんにも酷い事をされていたのは解ってた。だから、お姉ちゃんを助けてあげたかった」


「陽子」


 それ以上、陽子の口から何も言って欲しくなかった。


「だからあそこから突き落としたんだよ」


 陽子の指が展望台を差す。


「私がお父さんを殺したの」


 陽子の言葉が、あの日の光景を甦らせる。






 陽子が父を崖に突き落とした直後、空が夕焼け色に染まった。


 異変を感じた私は陽子を抱きしめた。


 崖下から伸びる無数の手が私の背中に触れ、彼らの意識が私の中に入り込む。


 肉に群がるピラニアのように、陽子の殺意に反応した亡者たちの怨念が次々と流れ込んでくるのを感じた。


 私は陽子を守りたかった。


 ただその一心で、亡者の手から陽子を庇うように強く抱きしめていたのを覚えている。


 私は盾となった。


 亡者たちのおぞましい怨念が陽子に流れないように、荒れ狂う意識の中で闘っていた。


 陽子を守りたい。


 私は怨念を飲み込み、自らが『呪物』になる事を選んだ。


 私という『呪物』が生み出した呪い。それは陽子の記憶から『真実』を抜き去る事だった。


 私を守る為に父を殺害した妹。そんな事実は消えてしまえばいい。


 これは事故だった。ただの、悲しい事故。


 せめて陽子だけは幸せでいて欲しい。


 その為には、こうするしかなかったのだ。


 だが、長い年月を経て亡者の思念に侵食され始めた私は陽子に『写真』を渡してしまい、陽子を『鍵』に選んでしまった。


 幼い私たちに内包された深い悲しみと殺意。


 それに呼応した亡者たちは、私たちを逃がしてはくれなかった。






「ずっと私を、守ってくれてたんだよね。お姉ちゃん、ありがとう」


 陽子の手から写真が滑り落ちる。


 主を失い舞いながら落下していく写真は、展望台の光の中へ吸い込まれた。


「お姉ちゃん、私、先に行くね。お父さんが待ってるから」


 下降して光に近付く陽子の手を握る。


「もう一人になんてさせない。ずっと一緒だよ」


 現世と楽園を繋ぐ『呪物』である私と『鍵』である写真を失った陽子が浄化されれば、もう現世が楽園に飲み込まれる事はない。


 展望台に集まってきた亡者たちが黙ってそれを見過ごすはずはなく、光に近付く私たちの体に白い靄が纏わり付いてくる。


 天に召されようとする私たちを、この地獄に引き留めようとする亡者たち。


 最期まで扉としての役目を果たせと言わんばかりに、無数の亡者が私と陽子を上空へと引き戻す。


 辛い人生だった。それは陽子も同じだろう。


 それでも生きる事を選んで来たのに、安らかに眠る事すら許されないのか。


 この地獄の中で、悲哀と憎悪に満ちた亡者たちと共に永遠の時を過ごさなければならないのか。


 私はどうなっても構わない。


 せめて陽子だけでも安らかに眠って欲しい。


 他には何も望まない。


 最期に、たったひとつだけ。


 私は神に祈ったが、願いを叶えてくれたのは神ではなかった。


 突如、四散して消えた亡者たちの向こうに見えたのは、力無く展望台に落下していく女性の姿だった。


 あの女性が命を賭して私たちを救ってくれたのだ。


 陽子が手紙を出してくれなかったら、私たちは亡者の思念と共に現世を地獄へと変えていただろう。


 手紙を読んでここへ来たこの女性は、私と陽子に正気を呼び戻し、そして命を投げ出して救ってくれた。


「ありがとう」


 展望台に横たわる彼女に感謝の言葉を投げ、私と陽子は天への入口に吸い込まれた。

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