第三十一話 『王』五田俊

 この地獄に迷い込んだのは、私だけではないようだ。


 夕焼け色に染まった不気味な景色の中、江美の死体を隠すための場所を探して歩いていると、人の話し声が聞こえた。


 江美の死体は、今はとりあえず車のトランクに入れてある。


 私が車を停めた公衆トイレのある駐車場には、他に車はなかった。という事は、他の駐車場からやって来た連中だろう。


 森の陰に潜みながら連中の会話に耳を傾けた。


 会話の内容は俄かに信じ難いものだったが、今の私にとって貴重な情報だった。


 江美の死体をトランクに運んだ時、街のある方角の景色が全て真っ赤な砂漠の様になっていたのを私も確認した。


 この地獄から脱出する為には、『呪物』が必要らしい。


 呪物。


 聞き慣れないはずのその言葉を聞いてピンと来た。


 江美が持っていたこの狐面。


 車の中でこの狐面を手に取った時、この面に関する情報が頭に流れ込んで来た。


 体に触れた事のある人間の心情を読み取る事が出来るこの面は、その人間を思い浮かべながら顔に重ねる事でその対象の姿に変化する事が出来る。


 私と何度も体を重ねた事のある江美は、これを使って私の心情を読み取りながら私自身に化けて監視していた。


 江美は言っていた。この狐面は昔、この山で手に入れた物であると。


 この狐面が、連中の呼ぶ『呪物』に相当する事は間違いないだろう。そうなると、この地獄から抜け出すためにこの狐面を連中に渡すのが最善策の様に思える。


 だが、そうはしない。


 何故なら、私は人を殺してしまったからだ。


 この山に死体を隠したところで、江美がいなくなった事で捜査が開始されれば死体は見つかってしまうだろう。


 それに、ここへ来る途中、私の車は二人の人物に目撃されている。


 山道で追い越した黄色のカーディガンの女。そして駐車場に現れたスクーターに乗った人間だ。


 殺害現場を見られた可能性だってある。


 手ぶらで元の世界へ帰ったところで、犯罪者として追われる人生を送る事は許されない。


 全てを手に入れてきた、この私が。


 この狐面があれば他人に成り代わって生きる事が出来る。


 五田いつだすぐるの存在は消え、永遠に捕まる事はない。


 連中の話によれば、この公園に存在している呪物は他にもあるらしい。


 つまり、脱出のために私の持つこの狐面が必須であるという訳ではない。


 連中が他の呪物を集め、『天』と呼ばれる場所に放り込めば元の世界に帰れる。


 それまでの間、私は連中にこの狐面を奪われない様に注意しながら江美の死体を隠す場所を探せばいい。


 連中が歩き出したのを見て、私は森を離れた。


 赤い池が眼前に広がった時、視界の隅に池を跨ぐ橋を捉えた。


 橋の中央に立つ人物に視線が吸い寄せられる。


「あれは……」


 間違いない。この山へ来る途中に追い越した、黄色のカーディガンを着た女が橋の中央に立っていた。


 あの女も地獄に迷い込んだのか。


 知らない女を憐れむ気持ちと共に湧き上がったのは、不快な疑心だった。


 殺害現場を見られたかもしれないという不安。


 確認する手段はある。この狐面を持ったままあの女に触れて心情を読み取るのだ。


 現場を目撃していないのなら放っておけばいい。


 もし見られていたら……。


 女は橋から池を眺めている。出来ればそのまま池に飛び込んで死んでくれたら都合が良いが、どうもそんな様子ではない。


「仕方ない」


 小さく呟いてから橋への一歩を踏み出した。


 女が右腕を前に伸ばしているのが見えた。手には何かが握られている様に見える。携帯電話で写真でも撮っているのだろうか。まさか地獄で記念撮影という訳でもあるまい。


 橋に辿り着き、女に近付いて行く。


 さて、どうしたものか。


 心配する素振りを見せながら自然に腕にでも触ればいい。それだけで狐面が私の脳に女の心情を流し込んでくれる。


 接近する私に気が付いた女は、腕を押さえながらこちらを見ている。


 さっきは暗くて解らなかったが、思っていたよりも随分若い。高校生くらいだろうか。暗い山道で追い抜いた時も思ったが、どんな用事があってこんな山奥まで数時間かけて歩いて来たのだろう。まあそれもすぐに解ることだが。


「君、大丈夫かい?」


 出来るだけ優しく声をかけた。だが女は鋭い目付きで私を睨みつけている。警戒しているというよりは、怯えている様だ。体が少し震えているのが解る。


 彼女が怯えている原因は、突然地獄に迷い込んだ事か、それとも私が殺人者である事を知っているからなのか、あるいはその両方か。


 ずっと腕を押さえているのも気になる。


「それ、どうしたの? 怪我でもしたのかな」


 もう一度声をかけると、女の視線が私の左手に動いた。


 しっかりと掴んだこの狐面が気になっているようだ。


 何も答えない女に苛立ちを覚えた。この女が殺害現場を見たのかそうでないのか、早くはっきりさせたい。


 強引に女の腕を掴んだ。


 その瞬間から数秒、いや、実際は一秒にも満たない時間なのかもしれない。


 私の意識は目の前の女の心情で満たされた。ダムを破壊した水流の様な勢いで脳に流れ込んでくる莫大な量の情報。


 我に返り、私の腕を掴んで引き離そうとしている峰川みねかわ志織しおりが見えた。


 この女は、殺害現場を目撃していない。私が誰かすらも解っていない。この女は自殺をしに来た同級生を追ってここに来ただけだ。安堵するべき情報を得たはずの私だったが、同時に知った恐るべき事実に驚愕する。


 絵や写真に捉えられた人物を殺傷出来る万年筆。


 さっきの連中が言う『呪物』に相当するであろう物を、この峰川志織も所持している。


「いや、離して!」


 叫ぶ峰川志織の腕を掴む手に力が入る。


 連中が呪いの力を弱めて無事に元の世界に戻る事が出来た時、この狐面と峰川志織が持つ万年筆があれば、神に等しい力を手に入れられるのではないか。


 全ての情報を手に入れ、誰にでも成り代わり、いつでも好きな時に邪魔な人間を屠る事が出来る。


 私の手を引き離す事を諦めた峰川志織が、携帯電話をかざした。


 何をしようとしているのかは一目瞭然だった。


 携帯電話のカメラが捉えた私の姿に、万年筆を突き立てるつもりだろう。


「どこを刺すつもりだ? 腕か。それとも、心臓をひと突きかな」


 私の言葉を聞いて心臓が止まる想いだったに違いない。峰川志織は驚いた表情を見せて硬直した。


 自分と羽白はねしろ勇人ゆうとという名の同級生しか知り得ないはずの情報を、全く会った事のない人間が知っているのだから無理もないだろう。


 狐面を振り携帯電話を持った手を強く叩くと、峰川志織の手から離れた携帯電話は欄干を飛び越えて池の中へと沈んでいった。


「大人しくしろ。おまえが持っている万年筆をよこせ」


 再び私の腕を引き離そうとした峰川志織を、欄干に押さえつける。


「やめてよ!」


「暴れるな。もう誰も殺したくないんだ」


 峰川志織は、私を睨みつけながら震える手で万年筆を差し出した。


 峰川志織の体を欄干に押さえつけていた腕を離し、万年筆をひったくる。


「いい子だ」


 そう言いながら万年筆を上着の裏ポケットに入れた直後だった。


 不意に視界が何かに覆われ、左目に鋭い痛みが走った。


 何かが目に入った。いや、食い込んだのだ。


 痛みのあまり、目を押さえる。


 開いている右目が捉えたのは、鋭く尖った爪を向けて真っ直ぐ飛んでくる梟だった。


 欄干を背にして目を押さえている私の顔に、梟が激しく突進する。


 大きく仰け反った背中が、欄干の感触を伝えてくる。


 次の瞬間、足の裏から地面の感触が消え去り体が宙に浮いた。右目が真っ赤な空と遠ざかる橋を捉える。


 梟が衝突して仰け反った私の体が、欄干を飛び越え池に落下した、という事を理解した時は既に水中にいた。

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