第三十二話 『王』② 五田俊

 落下してなお、左手に掴んでいる狐面が見える。これを離す訳にはいかない。


 今はとにかく、水面に上がらなければ。


 水中まで届く夕焼けの明かりに向かって上昇する。


 だが、どれだけ泳いでも一向に水面に出ない。


 体が凍り付いてしまったかのように急激に寒さを感じ、動きが鈍くなる。


 やがて意識が遠退く。


 視界が真っ暗になり、どちらが上で下かも解らない。


 死ぬのか。こんなところで。


 そう思った時に頭に浮かんだのは、温かい日差しが降り注ぐハワイのビーチだった。

 隣には沙苗がいる。


 そうだ。新婚旅行で沙苗と行ったハワイ。


 今、突然それを思い出したのには理由がある。


 氷の様に冷たかった体が、味わった事の無い程の心地よい温かさに包まれたのだ。


 気持ちが良い。このまま眠ってしまいそうなくらいに。


 ハワイのビーチで沙苗と過ごす穏やかな時間を打ち砕くように次に脳裏に現れたのは、ベッドの上でよがる裸の江美を押さえ付けている光景だった。


 沸き立ってくる。


 日々押さえていた異常なまでの支配欲。


 体中を包む温かい水から、何かが私の心の中に流れ込んでくる。


 流れ込んできたものが、押さえていた支配欲を突き上げる。


 固く閉ざされていたドアを激しく叩くように、体の内側に何度も衝撃が走る。


 だが、痛みは無い。むしろ心地が良いほどに感じられるその衝撃は、私の中に溜まったストレスを削ぎ落としていくかのようだ。


 途端に、自分が酷く無様に思えた。


 全てを手に入れたかった。そしてそれを実現して来た。それでも、私の支配欲が満たされる事はなかった。


 全てを手に入れても、全てを支配する事は出来ない。愚痴しか吐かない女一人手懐けられず毒牙にかかり、挙句、梟なぞに池に落とされて生涯を終える。


 馬鹿げている。


 そんな事が許されるはずがない。


 私は、あの戦国武将に憧れていたのだ。全てを欲し、寺を焼き払い、女子供を皆殺しにしたあの鬼神に勝る人間に。


 私も同じだ。私は王に成るべくして生まれて来たのだ。


 楽園の王に。


「……楽園?」


 突如、頭の中に浮かんだその言葉に疑問を感じたのが、私の最後の自我だったのかもしれない。


 ああ、この池は、私がここに来るのをずっと待っていたのか。


 私の中に流れ込んでいるのは、この池に留まり続けていた死者の思念。


 未練、私怨、理想を叶えたいという欲求。命ある者に対する激しい妬みと復讐心。


 あらゆる負の感情が私の中に潜む支配欲を引きずり出す。


 死者たちの思念が私を呼ぶ。


 救世主。英雄。王。


 今まさに創造されようとしている巨大な理想郷。亡者の楽園。


 その誕生を妨げようとしている者に向けられる邪念。


 私が、阻止する。


 邪魔者を排除し、現世を飲み込み、全てを支配する。


 私が、王になる。





 口から空気が流れ込み、視界に赤い空と橋が見えた。


 水面に出た事を理解し、更に大きく息を吸い込む。


 左目に激痛が走った時、右目が水面に浮かぶ狐面を捉えた。


 狐面を掴み、岸へ向かって泳ぐ。


 池から上がり、体中から滴り落ちる水を眺めている自分が笑っている事に気が付いた。


 池に落ちる前は地獄のようだと感じていた世界。


 今は信じられない事に、この場所にいる事が心地良く感じている。


 苦労して手に入れたマイホームより、江美と過ごした山奥のラブホテルより、ハワイのビーチより、どこよりも落ち着く。


「まずは呪物を集めなければ」


 呪物を浄化して現世と楽園を引き離そうとしているあのコートの男より先に、呪物を回収して優位に立たなければならない。


 濡れた上着の裏ポケットに手を入れ、峰川志織から奪った万年筆を所持している事を確認してから歩き始めた。


 左目が酷く痛み、開ける事が出来ない。


「あの梟め……」


 次に現れた時はなんとしても殺してやると梟に対して殺意を抱いた時、右耳に異変が起きた。


「くそ、水が入ったのか」


 微かに聞こえる耳鳴りを鬱陶しく思ったが、その原因が池の水ではない事を本能的に察した。


 南へ振り向くと、右耳の耳鳴りは左耳へと移動した。


「これは……」


 右目を凝らして東に見える森を凝視する。


「呪物か」


 私の意識に流れ込んだ亡者の思念が教えてくれたのかもしれない。


 呪物が作動している事を知らせるこの耳鳴りを辿り、森へと入っていく。


 次第に耳鳴りが大きくなり、頭痛と共に左目に痛みが走る。


 激痛に耐えながら森の中を進むと、うつ伏せに倒れている男が見えた。


 頭から血が流れているが、息はまだあるようだ。


 狐面を強く握り締め、意識を失っている男の背中に触れる。


 だが、この男が気絶しているせいか、断片的な情報しか流れ込んで来なかった。


 スクーターに乗って事故を起こし斜面を滑り落ちた後、意識を取り戻してしばらく歩き、この場所でまた意識を失ったようだ。


 おそらく江美といた駐車場に現れたスクーターの主だろう。


 この津口岳則という男の情報はそれだけだったが、所持している呪物に関する情報は得た。


 動かない津口岳則のカーゴパンツのポケットに手を入れ、中にある呪物を取り出す。


 塗装が剥げ、アンテナが曲がっている古いガラパゴス携帯。


 ボタンを操作して、メール欄を開く。


『ミノガミサゲスヨヘタヘオサマ』


 コートの男にこの呪語を言わせる事が出来れば、勝負は決まる。


 だが焦りは禁物だ。


 より多くの呪物を集め、確実にあの連中を皆殺しに出来る力を得るのが確実だろう。


 もう誰も私を止める事は出来ない。


 私は、楽園の王になるのだ。

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