第三十五話 『運命』村寺芳夫
もう、どこまでが現実なのか解らない。
情けない悲鳴を上げる事もなく、目の前で繰り広げられる光景を瞬きもせず見つめる。
血塗れで息絶えたハナをトランクに入れ、公園の駐車場に辿り着いた途端に車のエンジンが止まり、山が夕焼けに包まれた。
車の外に出て赤い砂漠と化した麓の景色を見た時、自分はもう死んでいるのではないだろうかと考えた。
ハナは私を庇って車に跳ねられたが、実は跳ねられたのは私自身であり、そこから今に至る一連の出来事は全て夢なのではないかと。
そう考えた方が辻褄が合う。
本来ラブドールであるはずのハナが車に跳ねられそうになった私を突き飛ばしたのも、深夜の山が急に夕焼けに包まれたのも、今、目の前で管理員と名乗る男と人型の
伸びてくる靄の白い腕を避けた管理員が体勢を崩し、私と衝突する。
衝撃で尻餅をついた私は立ち上がる事なく、果敢に立ち向かう管理員を眺める。
管理員の繰り出す拳は人型の靄をすり抜ける。掴みかかろうとしてくる靄の腕をかわしながら、何度も当たらない拳を打ち続けている。
こんな勇敢で屈強な男に成りたいという私の願望が、この夢を見せているのだろうか。
この男はさっき私に言った通り、今まさに運命に立ち向かっているのだろうか。
管理員の言葉は、全てを諦めハナを追って自殺しにここへ来た私の心に響いた。
叶えたい夢の為に命を賭けた事など、私には一度もなかった。
正確には、本気で何かを叶えたいと思った事なんてなかっただろう。
今の私はどうだろう。
もしこれが夢ではなく現実であったとして、私はまだ生きているのだとしたら。息絶える前にせめて叶えたい事はあるだろうか。
やがて管理員の両手が人型の靄の首を捉える。
今まで何度も靄の体を通り抜けていたはずの手が、しっかりと靄の首を握り締めた。
腕に力が込められていくのが解る。
人型の靄に接触した管理員の軍手が異質に見えた。
「おまえがくたばりやがれ!」
管理員の怒号が木霊し、靄が呻き声を上げながら消えていく。
その場に座り込み息を切らす管理員を見て、私はようやく立ち上がった。
「だ、大丈夫ですか?」
声をかけると、管理員はまだ呼吸が整わないうちに立ち上がり歩き始めた。
「さっさと池に行くぞ」
化物を退治した頼りがいのあるその背中を見て、私は真実を確かめたくなった。
「あの、これ夢じゃないんですかね」
「あ?」
「いやもう、なんていうか、とても現実とは思えなくて。私、本当に生きてるんですかね」
「夢なんかじゃねえよ。現実から逃げるな。あんたはまだ生きてる。死なれたら困るんだよ」
「生きてるんですか…… これは現実」
「そうだ」
「でもさっきのは?」
「わからん。けど、これで危険なのは解ったろ」
「あれのせいで、みんな池に避難してるんですか?」
「そう。そうだ。解ったらもうちょっと早く歩け」
これは現実。全て現実なのだとしたら、やはり私はハナに助けられ生きながらえている事になる。
そう思うと途端にまたハナが恋しくなった。
人間としての体温を失い、血塗れでトランクの中に横たわるハナを思い浮かべる。
失ってしまった最愛の人の為に、まだ生きている私に何か出来る事はあるだろうか。
「管理員さん。さっきの話なんですが」
「なんだ?」
「やりたい事、私にもありました」
「そうか」
「ええ、二つも」
「はっ! 二つってあんた、俺の話聞いてたのかよ。やりたい事をやるには命賭けなきゃ意味ねぇんだ。命はひとつしかない」
「解っています。管理員さんの言葉とね、さっき必死で戦っている姿を見て、考えたんですよ。今の自分が本当に望んでいる事は何かと」
「そうかい」
「やっぱり私はね、誰かの役に立ちたいですね。私を守ってくれたあなたの様に。そうすればね、自分が生まれてきた意味が生まれると思うんですよ。これまでの人生の全てに、意味があったのだと思える」
「それで、もうひとつは?」
「愛する人が死んでしまいましてね。馬鹿な私を庇ったばかりに、車に跳ねられたんですよ。轢き逃げです。その運転手を見つけだして、復讐してやりたい。いなくなった彼女の為に、私が出来る事と言えばそれくらいですから」
「そうか。まぁせいぜい頑張りな」
「ええ。私がこう思える様になったのも、管理員さんのおかげです。本当に、感謝しています」
林から冷たい風が吹いて来た。
木々の間から夕焼け色に染まった水面が顔を出す。
前を歩く管理員の足が止まり、私も同様に立ち止まる。
「屈め」
囁くようにそう言った管理員がしゃがみ込むのを見て、私も咄嗟に体勢を低くした。
「どうしたんですか?」
「なんだあいつは」
管理員の視線の先に、ずぶ濡れになって池から上がってくる男が見えた。
「ありゃあ、避難しに来て池に落ちちゃったんですかね」
私と同じようなスーツ姿のその男は、陸に上がると膝に手をついて呼吸を整え始めた。
「夏なのに、この山すごい寒いですからねぇ。あの人、風邪ひいちゃうんじゃないかなぁ。私の上着を渡してあげましょう」
「待て。動くな」
立ち上がろうとする私の腕を管理員が素早く掴んだ。
ずぶ濡れの男が歩き出そうとして、顔を上げた。片方の目が赤く滲んでいるのが見えた。
「怪我もしてるみたいですよ。早く手当てしてあげた方が……」
男の顔がはっきりと見えた時、私は自然と声が出なくなった。
退職する前の会社での日々が脳裏を通り過ぎていく。その記憶と、男の顔を照らしあわす。
「なん…… で」
そう呟くのがやっとだった。
どうして彼が今、こんなところにいるのか。
間違いない。あの顔は、営業企画部主任の
私に退職を決意させた心無い言葉を吐き捨てた上司。
歩き出した五田俊が見えなくなるまで、私は呼吸を忘れるほどに呆然としていた。
「どうして彼がここに……」
「なんだ。知り合いか?」
「え、えぇ、まぁ」
「わかんねぇもんだな」
「え?」
「あんたみたいな人間に、あんな知り合いがいるのか」
「……あんな、とは?」
「相当やばいぞ今の奴は。目を見りゃ解る」
「そ、そうですね。怪我してたみたいですもんね」
「そう言う意味じゃねえけどな。まあそんな事はどうでもいい。池はすぐそこだ。ほら、歩け」
「あっ、はい」
森を出て池の畔へと移動する。
西に見える山を覆う雲の中が、薄く光っているのが見えた。
「あれ、太陽ですかね?」
管理員は私の言葉に答える事なく池に近付いていく。
管理員の言葉からしてここに何人か集まっているのだろうと想像していたが、私たちの他に人影は見当たらない。
「あの~、避難している人たちはどこに?」
立ち止まった管理員が、振り返って手招きをした。
「みんなはあそこにいるんだ」
そう言って対岸を指す。
管理員の隣に立った私は、池のすぐ側から対岸を眺めた。
「どこですか?」
私の後ろにまわった管理員が笑いながら答える。
「もっとよく見ろ。良い景色だろ」
避難しているはずの人たちを探していた私は、『良い景色』と言われて困惑した。血のような色の空や池は、どちらかと言うと不気味に思えた。
「こんな見事な夕焼けはそうそう見られねぇ。人生の最後に見る景色としては申し分ないんじゃないか」
そう言われると、確かにそんな気もしてくる。もともと自殺をしにこの公園を訪れた私にとって、この少し不気味で異常な景色は合っているのかもしれない。太陽なのかよく解らない光を覆う暗雲がなんとも不穏で、実に私らしい。
しかし、死を決意していた私はこの公園で自分の理想像である管理員と出会い、死ぬ前に達成すべき目標を見出す事が出来た。
「なんか…… 笑っちゃいますね」
そう言いながらも、涙が溢れ視界が滲む。
「笑う? なんで」
「駐車場でね、もう助からなくていいんですって言っちゃいましたけど、もう少し、生きてみようと思うんですよ」
「そうかい。なら、運命に立ち向かわないとな」
「ええ。どうせいつか死んじゃうなら、やってみようと思います。管理員さんのおかげで見つける事が出来た自分の望みを叶える為に」
不意に叫びたくなった。
青春の最中にいる少年の様に、池に向かって愛する人の名を呼びたくなったのだ。
大きく息を吸い込んだ直後、体の左側に衝撃が走る。
何かに強く押された様だった。
よろめいた私の頭をかすめて、人の頭ほどの大きさの石が飛んでいくのが見えた。
目で追い続けた石が水しぶきを上げて池に吸い込まれる。
状況を理解出来ないまま振り向いた私の首に、管理員の軍手を纏った手の平が張り付く。
重機でプレスされたかのような力で押し倒され、上半身が池に叩きつけられた。
「よく避けたな! まだ運が味方してくれてるらしいぞ。さぁどうする!? 今が運命に立ち向かう時だぜ!」
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