第三十四話 『生贄』② 柳隆也

 木に衝突した俺の車を通り過ぎる時、村寺むらでらが窓から車中を覗き込んだ。


「うひっ!」


 村寺が情けない悲鳴を上げたのは、後部座席でくたばっている三原を見たからだ。


「あんたもそうならなくて良かったな」


「事故しちゃったんですね…… こりゃひどいな」


 運転席に誰もいない点に疑問は感じないようだ。


「俺の言う通りにしていれば安全だからな。何があっても俺から離れるな」


「ええ、どうもすみません」


 黒木の亡霊が襲ってきたら、この男は一人で暴れ出す俺を見る事になる。


 出来れば三原のように馬鹿みたいに突っ立っていて欲しいが、村寺の場合、恐怖を感じて逃げ出しそうだ。そうなると面倒極まりない。


「管理員さんは、どうですか?」


 村寺の質問の意図が解らなかった。


「どうですかってなにが」


「その、管理員さんのお仕事ってやっぱり大変なんですよね」


「そりゃあな」


「はぁ…… 仕事、辞めたいって思った事ありますか?」


「そりゃあな」


「はぁ…… それでも辞めずに頑張っているんですね。こうやって、大勢の人を助けて。素晴らしい事です」


「そうだな」


「いやぁ、情けない話なんですが、私、長年勤めていた会社を退職しまして。誰かの役に立った事なんてなかったなぁ。だからね、管理員さん見てると、すごいなって思うんですよ。辛くても辞めずに頑張って、たくさんの人の役に立って。私もねぇ、そういうふうになりたかったですよ。あのちなみに、お幾つですか?」


「38だ」


「そうですか。私と二つしか変わらない。私、36歳なんですがね。大違いですねぇ。あなたは素晴らしい。私は駄目ですよほんとに。必死で働いてたつもりだったんですがねぇ。結局、誰の力にもなれなかったなぁ」


 今から死ぬ事で確実に一人の人間の役に立つ。この男がそれを知らずにこの世から去る事が憐れに思えた。


「この年で結婚もしていないですし。年下の上司に『独身の男はこれだから駄目だ』と怒られましてね。その時はひどい事を言うなとカッとなって、仕事辞めてしまったんですが。今思えば、彼の言っている事は正しいと思うんですよ。私が、ほんとに駄目だったんです。私がこうなるのも全部、運命だったんだなって」


 この男は典型的な『現代の敗者』だ。


 誰からも嫌われたくないという気持ちが空回りし、自分では必死で努力しているつもりがどこかズレている。何も結果を出せない事で己を無能だと思い込み、萎縮し、殻に閉じこもる自分に慣れ、本当の自分を見失う。


 何度も自分の信念を捻じ曲げて揺るぎ倒した挙句、『こうはなりたくなかった』と思っていた人間像に近付いていく。


 この男が自分の意思のみで決断を下したのは、おそらく退職した時くらいだろう。その決断に対してさえ、後悔を感じている。


 かつて自分が抱いていたかもしれない信念を、もう全く覚えてはいないだろう。


 信念を持っていない人間は使い捨てにされる。


 本当の危機に陥った時、信念を持って肥溜めの中から這い上がって来る事で成長出来るのだ。


 自分の意思を持ってして生きる事が『生きる』という事だ。


 この男は退職して得たチャンスを後悔で潰した。


 無能な自分に今更何が出来るのだろうとしか考えられなかったのだろう。


 今も自分の過去について延々と愚痴り倒しているこの男に、出来れば今思った事を口に出してやりたかったが、危機に陥った結果、殺し屋としての道を選んだ俺が言う事じゃない。


「でね、結局ボーイさんに言われて別の女の子にしたんですが、店出てから、また泣いてしまいましてね。一体、私は何やってるんだろうって」


「まあなんだ。俺が言える事は、あんたもっと人の目を気にせず生きろ」


「は?」


「他人からの評価ばかり求めて、その評価こそが自分の全てだと思ってんじゃねぇのか」


「はぁ」


「時には人に迷惑かけたっていいんだよ。かけないようにしててもどうせかけちまうもんなんだから。本当に自分がやりたいようにやりゃいいんだ。その代わり命を賭けろ。死ぬ気でな。楽しいぞ。それまでのつまんねぇ人生が嘘だったみたいにな」


「やりたい事…… ですか」


「運命とか! 冗談だろ? そんなものはねぇ。仮にあったとしても、立ち向かうんだよ。あんた顔色悪いけど、五体満足で歩いてんじゃねぇか。それなら立ち向かえるだろ」


「運命に立ち向かう…… ですか」


「そうだ。それが出来ない奴が誰かの役に立とうなんざ……」


 喋るのを止めたのは、気付いたら自分の方が喋っているではないかと恥ずかしくなった訳ではない。


 前方に、夕焼けに染まった山道の先に、白いもやが見えたからだ。


 足を止めた時、後ろから村寺が声を出した。


「あれ、なんですかね」


「なに?」


「ほら、あそこになんか、きり? にしてはなんか変ですね」


 あれが見えているのか。


 何故見えているのかはこの際どうでもいい。見えているなら話は早い。


「おい。ここから絶対に動くなよ」


「はい?」


「何があってもじっとしてろ」


 靄が近付いてくる。人の形に変化した靄はもう聞きたくもない不快な声を張り上げる。


「バカヅラ…… ミセヤガレ」


「かかってこいクソが」


 軍手をはめた拳を握りしめる。


 池はもうすぐ近くだ。生贄もここにいるぞ。あと一度だけでいい。しっかり働きやがれ。心の中で軍手にそう呼びかける。


「あぁ! あひぃ! なん、なんですかあれ」


「悪霊退治としゃれこもうや」


 黒木の白い腕が伸びてくる。

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