第十二話 『万年筆』③ 峰川志織

「もしもし?」


 返事はなかった。無言だけど、微かに涙を啜る音が聞こえた。


「羽白くん? どうしたの?」


 風が吹き込む音が聞こえて、彼が今どこにいるのかが気になった。かつて羽白くんと一緒に行った畑のガレージが思い浮かんだ。


「今…… どこにいるの? あのガレージ?」


「フクロウになりたい」


 通話が突然切れる直前、小さな声で確かにそう聞こえた。夏休みの間、ずっと彼の事が気掛かりになっていた気持ちが爆発した。


 私は適当にカーディガンを羽織って家を出た。学校の最寄の駅へ向かう最終電車に間に合った私は、電車を降りた後ガレージを目指して走った。


 ガレージのシャッターは半分開いていて、中から照明の明かりが漏れていた。


「羽白くん!」


 名前を呼びながら中に入ったけど、羽白くんの姿はなかった。天井からぶら下がった電球が、メンフクロウの絵と椅子の上に置かれたノートを照らしていた。


 それは、羽白くんと初めてまともに会話をした時に彼が持っていたノートだった。


 主のいないガレージの中で、私はゆっくりとそのノートを手に取った。 


 表紙を開け、このノートが羽白くんの日記である事を理解した。花や動物の絵と共に、その日あった出来事や心情が綴られていた。


『4月5日。

 高校2年生。僕の人生最後の年が始まった。

 僕の心臓を蝕む病気は留まる事無く体から生気を吸い取っている様に感じる。

 でも、覚悟はもうとっくに出来ている。僕の病気が治らない事はずっと前から解っていた。だからこうして、今までと同じ様に絵を描いて過ごしている。

 今までと違う事と言えば、この日記を書き始めた事くらいだ。』


『4月16日。

 田賀海さんはきっと怒っているんだと思う。でも、それは僕が悲しい想いをさせてしまったからだ。今日も蹴られたけど、それでいいんだ。

 自分と付き合った人が、突然病気で死んだらきっと悲しいに決まってる。僕は田賀海さんを傷付けたくなくて付き合う事を断ったけど、結果的に悲しませてしまった。それでも、好きな人が死ぬ時より嫌いな奴が死んだ時の方がショックは少ないはずだ。だからこのままもっと嫌ってくれればいいと思う。』


『5月2日。

 今日、久しぶりにフクロウがやって来た。

 最近山に行ってなかったから、向こうから会いに来てくれたんだと思う。

 僕の描いた色んな景色の絵を見てくれたみたいだった。

 僕に羽があったら、絵に描いた世界中の場所に行ってみたい。今まで辛い想いをしてきたんだから、最後くらいそんな奇跡が起こってもいいはずだと思う。

 きっと起こらないだろうけど。』


『5月27日。

 今日は天気が良かったので、公園のある山に行ってきた。

 筆箱を忘れちゃったけど、立派な万年筆を拾ったのでそれで絵を描いた。

 公園の池に架かる橋の絵だ。

 どうせ死ぬなら狭い病院の中じゃなくて、こんな綺麗な景色の中で死にたい。

 首を吊ったりするより、この橋から池に飛び込んだら発作が起きて楽に死ねる様な気がする。』


『6月3日。

 今日は良い事があった。先の短い僕を神様が哀れんでくれたのかもしれない。

 峰川さんがガレージに来てくれた。友達が出来たと喜んでいたのは僕の方だけだろうけど、それでも同級生といろいろ話が出来て楽しかった。

 でも、あんまり仲良くなる訳にはいかない。辛くなるから』


『6月8日。

 早くいなくなりたい。

 かつて自分が好きだった人に恨まれるのは耐えられない。でも、自分が好きだった人がだんだん嫌いになって行くのはもっと耐えられない。どうしてこんな想いをしなくちゃいけないのか。この気持ちはきっと誰にも解らない。

 僕は田賀海さんの事を好きなまま死にたいのに』


『6月20日。

 早く夏休みになって欲しい。

 もう田賀海さんに会いたくない。嫌いになりたくない。』


『7月2日。

 僕を迎えに来たのは天使じゃなくて悪魔だった。

 万年筆を拾ったのは運命だった。きっと僕が生まれるずっと前から、僕は悪魔の遣いになる事が決まっていたんだと思う。

 田賀海さんの足の骨がぐちゃぐちゃになったのは偶然じゃない。僕がやったんだ。

 僕の足を蹴り続ける田賀海さんを嫌いになりそうでおかしくなりそうだった。だから落ち着こうと思って田賀海さんの絵を描いて、でも、なぜだかわからないけど足を黒く塗りつぶしてやりたくなった。きっと悪魔の囁きだ。僕がそうしたいと思った訳じゃない。

 田賀海さんが骨折したのはたまたまだと確かめたかった。だから自分の絵を描いて、万年筆で絵の中の自分の腕に線を入れた。自分の写真にも線を入れて確かめた。

 それで間違いじゃないと気付いた。

 この万年筆で絵や写真の人物に線を入れたり塗りつぶしたりすると、実際にその人間が怪我をする。足を塗りつぶすと骨が砕け、腕に線を入れると傷が出来る。

 僕はこれを悪魔に授けられ、死ぬまでの間に出来るだけ多くの人間を傷付ける使命を与えられたんだ。でも、そんなのはイヤだ。だからもうはやくかいほうされたいもういやだだれもきずつけたくないいやだいやだはやくもういなくなりたいたがうみさんはぼくのせいでぼくがやったぼくが』


『フクロウになりたい』


 最後に一言だけ書かれたページには日付が書かれていなかった。でも、そのページだけ酷く濡れていた。


 そのままノートを捲っていくと、後ろのページに制服を着た男女が描かれていた。女子の右膝は黒く塗り潰されていて、男子の方は右腕に線が何本も入っている。


 最後のページには、池に架かる橋の絵があった。校舎裏で羽白くんと話した時に見たものだろうけど、あの時と違う部分があった。


 欄干の上に立って池を眺めている人物が書き加えられていたのだ。


 ノートを閉じて考えた。


 羽白くんが千重と付き合わなかったのも、旅行に行けないと言っていた事も、その理由ははっきりした。


 羽白くんは不治の病に犯されていたのだ。


 だけど、この日記を読んでもどうしても信じられない事がある。


 万年筆だ。


 羽白くんが悪魔に選ばれたなんて思えない。そんな恐ろしい力を持った物が本当に存在するなんて考えられない。


 そんなありえない事について考えるより、今は羽白くんの身を案ずる事が先決じゃないだろうか。


 携帯電話を取り出して羽白くんに電話をかける。けど、繋がらない。携帯の電源を切っている様だった。


 ノートの最後のページに描かれた、池に架かる橋の絵をもう一度見る。


 羽白くんは自分の命を絶つ為にこの場所へ向かったと、直感的にそう思った。


 ガレージの外に出て、黒く覆われた山に向かって走り始めた。


 ただ、無事でいて欲しいと願いながら一心不乱に走り続けた。

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