第十三話 『万年筆』④ 峰川志織
どれくらいの時間走っただろうか。
真っ暗な細い山道を進み続ける。この先に公園があるはずだ。
呼吸が激しく乱れ、体力に限界を感じた。それでも走ろうとしたが、疲労のせいで体が言う事を聞かない。
仕方ないので、しばらく歩いて進む事にした。
昂ぶった気持ちを落ち着かせると、暗闇に覆われた木々が急に怖く感じた。当たり前だが、人気も全くない。この山道に入ってからも、車が一台通り越して行っただけだった。
別れ道に辿り着き、しばらく立ち止まった。
どっちが池に繋がっているのか解らない。携帯電話を取り出す。圏外のためGPSは起動しなかったが、地図は確認出来た。
右の道が公園の池に繋がっている様だ。
右へ進み、誰もいない静かな山の中で羽白くんの事を考え、後悔した。
夏休みに入ってから、羽白くんに会いに行けば良かった。話を聞いてあげる事が出来ていれば。
「ごめんね。ごめん。でも、だからって勝手にいなくなるなんて、ひどいよ」
ガレージでメンフクロウの絵を描く羽白くんの後ろ姿を思い浮かべ、涙が込み上げて来た。
その時、後方からエンジン音と共にライトの明かりが差し込んで来た。
バイクだろうか。随分スピードを出しているみたいだ。
私が道の端に寄ったと同時に、後方から激しい音が聞こえた。
驚いて振り向くと、ガードレールに衝突して倒れるスクーターが見えた。
スピードを出しすぎてカーブを曲がり切れなかったのだろうか。
人の姿は見えない。ガードレールに衝突した衝撃で、斜面に放り出されてしまったのだろうか。
スクーターに駆け寄る。回転し続ける後輪がカタカタと音を立てている。
斜面を覗き込むが、暗くて何も見えない。
あまりにも突然な出来事に呆然としてしまっている自分に気付く。
「そうだ…… 救急車呼ばなきゃ」
圏外でも緊急通話は繋がるはずだ。そう思って携帯電話を取り出した瞬間だった。
瞬きをする刹那だった。辺り一面、視界に映る全てが橙色に染まった。
夕焼けの様な空が広がっている。
もう一晩中歩き続けていたのだろうか。それにしても急に明るくなるなんて変だ。そう思って、携帯電話を確認する。『02:20』と表示された時間を見て、酷く混乱した。
緊急通話ボタンを押すが電話は繋がらない。
「なに……? 一体どうなってるの?」
夕焼け色に染まったスクーターの後輪が回る音が鳴り続けている。
立て続けに起こる非現実的な出来事に困惑しながら、自宅に電話をかける。でも、やっぱり繋がらない。
別世界に迷い込んでしまったかの様な異様な景色の中、とにかく羽白くんを探して歩き続ける事しか出来なかった。
やがて森が開けて、濃い夕焼け色に染まる溶岩の様な大きな池が視界に入った。羽白くんがノートに描いていた橋が見える。
池の向こう側に見える山を包む暗雲の中から、鈍い光が漏れている。
橋の上に羽白くんの姿はない。
「どこにいるの」
まさかもう池に飛び降りてしまったのだろうか。浮かび上がる悪い考えを振り払いながら橋の上を進んでいく。
ちょうど橋の中心辺りに、何かが落ちているのが見えた。
「あれは……」
拾い上げた万年筆を見て、心臓が強く締め付けられる感覚がした。これは、羽白くんが山で拾ったと言っていた万年筆だ。彼がここに来たのは確実だ。
血で満たされているかの様な赤い池を見下ろす。
「嘘だよね…… いやだよ。急にいなくなるなんて」
今にも池から死体が浮かび上がってくる様なイメージに囚われ、頭を強く振った。
羽白くんは、悪魔に連れていかれてしまったのだろうか。
そう思った時、ガレージに残されていたノートに記された内容を思い出した。
羽白くんがいなくなってしまったのは、この万年筆のせいだ。羽白くんが病気の事で悩んでいた事は確かだ。でも、自殺を決定づけたのはこの万年筆のせいだろう。
この万年筆には、羽白くんが日記に書いていた様な恐ろしい力が本当にあるのだろうか。
確かめる方法はある。
羽白くんは日記の中で、絵と写真を使って確かめたと書いていた。
私は携帯電話を取り出して、カメラ機能を使って自分を撮影した。
保存された画像に映る自分を確認する。
「そんな事…… 絶対あるわけないよね」
呟きながら深呼吸する。
画像の中の携帯電話を掲げる自分の右腕に、万年筆を付き立てた。
瞬間、腕に鋭い痛みが走る。
針で刺したかの様な形の傷から血が流れてくるのを見て、もう何も考えられなくなってしまった。
「こんなの…… おかしいよ」
悪魔の道具を使ってしまった羽白くんは、地獄に連れていかれてしまったのだろうか。この突然迷い込んだ夕焼け色の世界が、地獄なのだろうか。
羽白くんを追いかけて来た私も、地獄に入ってしまったのだろうか。
とにかく、思い切り叫びたい衝動に駆られた。
でも、橋の入口から自分に向かって近付いてくる人影が見えて叫ぶのを止めた。
誰か歩いてくる。
その男はスーツを着ていて、真っ直ぐ私の顔を見ながら近付いてくる。
この地獄の住人という訳ではないだろうけど、何故か普通の人間には思えなかった。
私は咄嗟に万年筆をポケットに隠し、とてつもなく大きな嫌な予感に苛まれた。
その男が目の前に来るまで、私はこの場から動く事が出来なかった。
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