第十一話 『万年筆』② 峰川志織

 畦道の途中にある大きなガレージに到着した羽白くんは、ポケットから鍵を取り出してシャッターを開けた。


 外観からは二階建てかなと思うほど屋根が高いガレージだけど、中を覗いてみるととても天井が高い倉庫みたいな場所だった。


 長い脚立や角材が何本も並べられているけど、一番目に入ったのは何台ものイーゼルに固定された様々な絵だ。


 万里の長城やピラミッドなど、世界各地の名所が描かれた絵が何枚も並んでいる。


「うわ、すっごい。羽白くん、いつもここで絵を描いてるんだね」


「おじいちゃんがこのガレージ使っていいって」


「世界中の名所が好きなんだね」


「うん。実物を見る事は出来ないから、せめて絵に描いて実際に行った気分になりたくて」


「どうして? 見にいけばいいじゃん。大人になったら、旅行したりしてさ」


 私がそう言うと、鞄の中からノートを取り出していた羽白くんの動きが止まった。


「無理だよ。行けないんだ」


「なんで? 立ち入り禁止のとこもあるけど、ほとんどの名所は観光で見に行けるよ?」


 羽白くんは返事をしなくなった。


 海外に行けない事情があるのかもしれない。そう思うと、さっきから自分がとても無神経な事を言っている様な気がして申し訳ない気持ちになった。


 羽白くんがガレージの中央に置かれた椅子に座ってイーゼルに固定された絵と向き合った後、鉛筆を手に取った。


 何の絵を描いているのか気になって覗き込んで見る。


「あっ、私これ知ってる。メンフクロウだよね」


「そう。よく知ってるね」


「好きだもん。カワイイよね、メンフクロウ」


 私がそう言うと羽白くんは振り返って私の顔を見た。彼が何か話す時に人の顔を見るのは珍しい事だ。でもその時、彼も私の事を『珍しい』と思っていた様だ。


「可愛い? 変わってるね。メンフクロウを可愛いって言う人に初めて会ったよ。大抵の人はみんな顔が怖いって言うから」


「そうかな。顔カワイイじゃん。私は好きだよ」


「時々、このガレージに入ってくる事があるんだ」


「メンフクロウが?」


「近くの山から飛んで来るんだと思う」


「へぇ! あの山フクロウとかいるんだ。何しに来るの?」


「わからない。シャッター開けたまま絵を描いてると、いつの間にか入ってきてて、戸棚の上でじっとしながら僕の描いた絵を眺めているみたい」


「なんかおもしろいね。羽白くんの描く絵が好きなのかも」


「どうかな。気付いたらいつの間にかいなくなってる」


 今日は私がいるせいでメンフクロウは来なさそう。でも、とても静かで、外から流れ込む風も気持ち良くて居心地の良い場所だ。


 絵を描く事に集中する羽白くんを眺めているうちに私はなんだか眠くなって、椅子に座ったままウトウトし始めた。


 気が付いた時には外は少し暗くなっていた。


「そろそろ帰らなくちゃ」


 羽白くんがそう言って立ち上がったので、私はまだ少し残る眠気を感じたまま外に出た。


「今日は…… ありがとう」


 シャッターを閉めた後、羽白くんが小さく呟いた。


「いいよ。暇だったし。ごめんねお邪魔しちゃって」


「いや、そうじゃなくて」


「え?」


「その、助けてくれたから」


 放課後の校舎裏での事か。それなら、お礼なんていらない。あれはもともと私のせいだし。


「気にしなくていいよ」


 笑顔に自信は無いけれど、精一杯笑いながらそう答えた。そうすれば、彼も笑ってくれると思ったけど、そうじゃなかった。


「もう、これからは助けなくていいから」


 少しショックだった。もう自分に関わらないで欲しいと言われた様に感じてしまった。


「僕がいじめられてるのを見ても何もしなくていい。先生とかにも言わないで」


「なんで?」


「僕は田賀海さんに酷い事をされて当然なんだ。もともと田賀海さんに酷い事をしたのは、僕だから」


「千重に? 何したの?」


 羽白くんはまた俯いて返事をしなくなった。


「言い難いなら無理に言わなくていいよ。でも、蹴られたりしてるのに黙ってる事ないと思うけど」


「付き合って欲しいって言われたんだ。一年生の時に」


「千重に?」


 黙って頷く羽白くんを見て驚いた。


 千重が羽白くんに告白するなんて想像出来ない。でも、こんな意味のない嘘をつく訳ないからきっと本当の事なんだろう。


「振られたからって、いじめたりするのはおかしいと思うけど」


「振った訳じゃない。でも、とにかくもう何もしなくていいから、約束して」


 そう言って歩き出した羽白くんの背中を見て、私は寂しい気持ちになった。せっかく仲良くなれたと思ったのに、これから彼がいじめられているのを黙って見過ごさないと行けないのか。


 私は羽白くんの行く手を塞ぐように回り込んだ。


「解った、約束する。その代わり携帯番号教えてよ」


 何か仲良くなった証が欲しかった。番号は交換して貰えたけど、それからは何も話す事なく駅に着き、それぞれ別の電車に乗って別れた。


 それからの一ヶ月間、私は何度か羽白くんがいじめられている現場を目撃した。でも、約束を破って羽白くんに嫌われてしまうのが怖くて何も出来なかった。


 だけど、暴力を振るわれているのを黙って見過ごすのは辛かった。次に現場を目撃したら、約束を破ってでも助けに入ろうと思った矢先、ある事件が起きた。


 もうすぐ夏休みに入るある日の事、千重が部活中に足の骨を折って入院したという話を聞いた。容態は軽いものでは無く、膝の骨が粉々になっていてまともに歩けるようになるには長い時間を要するらしい。


 千重が学校に来れなくなって久実香も未央も大人しくなったけど、同時に羽白くんも学校に来なくなった。


 夏休みの前日、羽白くんの事を気にしながら下校する私の前に、彼が突然現れた。


 泣きながら何かを言いたそうにしている羽白くんの右腕には包帯が巻かれている。


「羽白くん…… その腕どうしたの?」


 私の質問に答える事もなく、彼は黙って踵を返して去ってしまった。


 夏休みに入ってからも、私はあの時の羽白くんの姿が忘れられなかった。一体、私に何を伝えようとしていたのだろう。あの腕の包帯は……。


 羽白くんに何度も電話したが、彼が出てくれる事はなかった。



 八月のある夜、午前0時を回ろうという時、突然羽白くんから電話がかかって来た。

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