第二話 『呪物』由良貴信
何歳の頃だったかは覚えていない。それほどに古い記憶だ。
私は畳に敷かれた布団の上で仰向けになって、天井を眺めていた。あの夜は妙に胸がざわついて、なかなか眠れなかった。
眠っている父と母の間から、天井の豆電球を見つめる。電球は暗くなった部屋を焚き火のような橙色の光で照らしていた。
その光景には見覚えがあった。
父がくれた絵本。
その中には、広大な宇宙に浮かぶ太陽が描かれていた。
無限の暗闇で燃え続ける太陽と深夜の部屋で光る豆電球を重ね合わせ、物音ひとつしない静かな夜の中、宇宙もこんなに静かなのだろうかと考えた。
そう思うと、自分は今、本当に宇宙にいるのかもしれないという気持ちになってきた。
太陽に生き物はいるのだろうか。もしいるのだとしたら、あの豆電球の中にもいるのかもしれない。そんな事を考えていた。橙色の光の中から、何かがこっちを見ている様な気がした。
豆電球を凝視した。橙色の輝きの中に、何か蠢くものがないか探した。
静寂を押しのけたのは、隣で眠る父のいびきだった。
宇宙に鳴り響くその音は、太陽の様な豆電球からの警告に聞こえた。
『こっちを見るな。探そうとするな』
そんなふうに怒っているのかもしれない。
そう考えて突然、泣きそうになるほど怖くなったのを覚えている。
豆電球から目を逸らし、父の肩を揺さぶった。
「おとうさん」
「あ?」
「それやめて。その音、こわいよ」
「あぁ。すまん」
父は鼻から長い息を吐いて、再び目を閉じた。
肩に乗せた手を布団の中へと戻す前に、いびきが再開する。
「おとうさんってば」
一度目より力を込めて肩を揺らした。そうすると、今度は両目が開いた。
「これはなぁ、怖くないんだぞ」
「え?」
「怖いと思うから余計に怖くなるんだ。おばけってのはな、怖がってるやつに集まってくるんだぞ」
「そうなの?」
「そうだ。だから怖くない。父さんのいびきは、
「みかたって?」
「魔除けだ。貴信を悪いおばけから守ってくれる音だ」
「ほんと?」
「うん。父さんのいびきで、おばけはみんな逃げていくからな。だから大丈夫だ。怖くない」
いつの間にか父は目を閉じていた。今度は鼻から息は出なかった。
私は父の肩に手を置いたまま、しばらくじっとしていた。
いびきは再開しない。
父に向けていた視線を、少し上に移動した。
箪笥の上に飾られている、髪の長い日本人形と目が合う。また怖くなって、母の方へ振り返った。
枕に被さる母の髪と、その向こうにふすまが見える。
私は目を閉じた。
父は眠りたかった。眠りを妨げられる事のないよう、幼い自分から恐怖を取り除いて安心させようとしたのだ。当時の私も、それを理解していた。だからこそ、いびきが鳴り止んだらお化けがやって来るとは思わなかった。
そして再び訪れた静寂の中、ようやく眠気を感じた。
眠気を感じた瞬間に目を開けるなんて、今考えてみれば不自然だ。
本能的に、今眠りに落ちてはいけないと思ったのかもしれない。
それとも、母の向こうに見えるふすまに浮かび上がったものが、私を起こしたのだろうか。
ふすま全体を覆うほどの大きな青白い手の平が視界に入った時、不思議な事にあまり恐怖は感じなかった。
幼いながらも、それが普通ではなく異質なものである事は解っていた。
宇宙にだってこんなものはないだろう。少なくとも、絵本には描かれていなかった。
これは、一体なんなのだろう。
父が魔除けの音を止めたせいでやってきたお化けなのか。それとも、豆電球の中に潜んでいた太陽の住人なのだろうか。
私はしばらく、青白い手を観察していた。
父も母も起こさなかったのは、そうするとこの手が消えてしまうと思ったからだ。
青白い手は全く動かなかった。ただ、少しずつその色を濃くしていった。
やがて、透き通って見えていたふすまが完全に隠れ、指の関節の皺までもがはっきりと確認出来るようになった。
それでも、やはり動き出す事はない。
その大きな手で私を掴んで何処かへさらう訳でもなく、ただ、手の平を向けてそこに佇んでいるだけなのだ。
それなのに、鼓動は次第に強さを増していった。
私には解っていた。
その手は、そこに存在する事で何かを訴えかけていた。強く、とても強く何かを伝えようとしていた。
それが何なのかははっきりと解らない。だが、その感覚はついさっき味わった感覚によく似ていた。
豆電球の中に潜む誰かを探していて、父のいびきが始まった時に感じた『警告』のようなもの。
それでもさっきのように泣きそうにならなかったのは、その青白い手に何故か親しみを感じていたからだ。
少し怖いけど、味方だ。父の魔除けの音みたいに。
そう思った後の事は覚えていない。味方なんだと安心した事で、急に眠ってしまったのだろう。
この数日後に、私は両親と映画を見に行く事になる。
その日、理由は覚えていないが私はへそを曲げた。
拗ねた私は映画館へ向かう途中、父と母からわざと離れて濁流のように人が行き交う駅のホームを彷徨った。
しばらくして、濁流から飛び出してきた父が私の腕を掴んだ。
次の瞬間、父は私の頭を引っ叩いた。
「どこに行ってたんだ。心配したぞ」
後頭部に走ったその痛みは、転んで地面に頭を打ち付ける痛みとは違ったものだった。
不意に害だけが襲い来る痛みではなく、襲い来る害から身を守る為の痛み。そんなふうに感じたのだ。
そしてそう感じた時、あの青白い手の存在がより理解出来たように思えた。
あの青白い手は、父が叱るように鋭く警告を発していた。それと同時に、僕を何かから守ろうとしていた。
二十六歳になった今でも、それは確かだと自信を持って言える。
あの青白い手が『幽霊』の類ではないとすれば、私が始めて幽霊を見たのは九歳の時だ。
あの日、私は幽霊には『匂い』がない事を知った。
幽霊自体が無臭と言うよりは、無臭の空間を作り出している様に思えた。あるいは、幽霊には人間の嗅覚や聴覚といった五感を封じる力があるのかもしれない。
この世に存在している物には少なからず匂いがある。限りなく無臭に近いものであっても、完全に匂わないという訳ではない。
生物であれば生きる為に生み出され発せられているエネルギーが臭いを放つ。生命体である証だ。無機物であっても、構成物が発する臭いがある。
人は生きている限り、常に何からの匂いに包まれているのだ。
それらの匂いが突然消えた時、近くに幽霊がいる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます