第三話 『呪物』② 由良貴信
六月の梅雨時だった。
学校が終わった後、友達と大雨の中でずぶ濡れになりながらボールを蹴って遊んでいた。
やがて日が暮れて、友達の母が傘を差してやって来た。
「こんなびしょ濡れになって!」
私たちを見て開口一番そう言ったおばさんはひとしきり友達を叱った後、私に駆け寄って来た。
「あらら、
おばさんがそう言いながら手招きするのを見て、友達が嬉しそうに話し始めた。
「そうだ。今日泊まっていけばいいじゃん。お母さん、いいでしょ? 明日学校休みだし」
「そうねぇ。服も洗濯しなくちゃいけないし、そうしましょう。貴信くん、今お母さん家にいるかな? 電話しても大丈夫?」
「はい。いると思います」
「じゃあ今日はウチに泊まろっか。お母さんに連絡しておくね。えっと…… 貴信くんは名字なんて言うんだっけ?」
「
「難しい言葉知ってるのね! 貴信くんは偉いわねぇ。あんたも見習いなさい」
「行こうぜ貴信。今日は朝まで遊ぼう!」
「こら。夜更かしはダメよ」
少年にとって、友達の家に泊まるより楽しい事はなかなかないと言える。私はこの時、鼓動が高鳴っていたのを覚えている。
雨に打たれながら無我夢中で遊び、楽しい時間もそろそろ終わると覚悟していた時、友達といられる時間が延長されたのだから嬉しさのあまり心が躍った。
友達の家は、建てられてまだ間もない綺麗な住宅だった。
数時間、曇った薄暗い空の下で遊んでいたせいもあったのか、玄関の白色の明かりがとても眩しかった。
甘い芳香剤の香りの中に、新築独特の木材の匂いが混じっていた。
風呂から上がって友達の父が帰宅した後、みんなで夕食を食べた。
食事を済ませた後、二階にある友達の部屋に行き、午前1時を過ぎるまでゲームをしたりテレビを見たりしていた。
今日は朝まで遊ぶぞと意気込んでも、いつの間にか眠りについてしまうのが子供だ。
床に敷かれた布団の上で、二人とも眠ってしまった。
このまま夜が明けるまで目覚める事がなければ、とても良い思い出になったに違いない。
それ程に楽しい一日だった。
不意に目が覚めた時、すぐに考えた事はトイレの場所だった。
『そうだ、友達の家に泊まっていたのだった』と、まず意識をはっきりさせてから一階の廊下の突き当たりにあるトイレを思い浮かべた。
部屋は真っ暗だった。電気を消した覚えはない。
友達が消したのか、それとも友達の親が様子を見に来た際に、寝息を立てる子供たちを見て電灯のスイッチを押したのか。
家屋を叩く雨粒の音が聞こえる。強さを増した風が窓を揺らしている。
起き上がり、部屋のドアを開けて廊下に出た。
階段を降りようとした時だ。
まさにこの時、『全ての匂いが消える』瞬間を体験した。
芳香剤も、新築の木材も、その存在を失ったかの様に匂いを消した。
突然、夢の世界にでも入り込んだ様な感覚に陥ったが、外から聞こえる豪雨の音が意識を現実に繋ぎとめた。
同時に、階段の下の明かりに気が付いた。
玄関の明かりがついている様だったが、それはとても妙だった。
眩しい程の白色を放っていた玄関の蛍光灯。あの明かりはよく覚えている。
しかしこの時、階段の先に見える玄関の床は、焚き火の様な橙色の光でぼんやりと照らされていた。
何かがおかしい。
そう思いながらも止めていた歩みを再開させ、一歩だけ階段を降りる。
思いもしなかったものが視界に入り、再び停止する。
足だった。
白いハイソックスとピンク色のスニーカーに包まれた細い足が二本。そしてその隣には、赤いパンプスを履いた足が更に二本並んでいた。
花柄模様のロングスカートの裾が僅かに見えている。
それが幽霊であるとは、まだ思っていない。
匂いが消え、夕方見たものとは違う不自然な玄関の明かり。
それらの要素がありながらあまりにもはっきりと見える四本の足を、幽霊のものであると結びつける事は出来なかった。
きっと、お客さんだろう。
こんな深夜に?
一切動かない四本の足をしばらく見つめた後、それが人ではなく、人形のものではないかという考えが浮かんだ。
確かめるべく、一歩ずつ階段を降りていく。
四本の足の主が視界に入ったのは、階段を半分ほど下りた時だった。
ピンクのスニーカーを履いた女の子は白のワンピースを着て、麦わら帽子を被っていた。
細い右手で、隣に立っている母であろう人物の左手を握っている。
母の方は、花柄のワンピースを着ていて、パーマのかかったショートカットという髪形をしていた。
人形ではなかった。紛れも無く本物の人間に見えたが、呼吸を感じさせないほど蝋人形の様に動かない。まるで時間が止まっている様だった。
おそらくもう視界の隅に入っているであろう私に反応する事もなく、ただ棒立ちで玄関に佇んでいた。
二人の視線は、玄関から真っ直ぐ伸びる廊下へと向いている様だ。まばたきをする事もなく、ただ廊下の先を見つめていた。
口を閉じて無表情な女の子とは違い、母の方は少し口が開いている。
とぢらも傘は持っていない。だが、濡れている様には一切見えない。
それに気付いた時ようやく、現実ではありえないものを見ているのかもしれないと思い始めた。
動く事は出来なかった。
静止する二人を階段から眺めていた。
玄関のドアの上部に備え付けられた窓が二度、激しく光る。数秒後に雷の音が鳴り響く。
あの二人は一体、何を見ているのだろう。二人の視線の先には何があるのだろう。しばらくそう考えたが、確かめる度胸はなかった。
これ以上、階段を進んで二人に近付いてはいけないと、本能的に思った。
後ずさるように階段を上り、二人の姿を少しずつ視界から消した。
部屋に戻り、布団に潜り込む。
階下に立ち尽くす二人の姿を思い浮かべながら目を閉じていると、いつの間にか眠りについていた。
翌日、友達にも、友達の家族にも、深夜に玄関に立っていた親子の話はしなかった。
一体彼女達が何者なのか気になっていたが、誰かに聞いたところで答えを得られるとは思っていなかった。
あの二人が幽霊である事を確信したのは、それから数日後の事だった。
母の買い物に着いていった帰り、近所の知り合いと偶然会った母が話し込み始めた。
早く帰宅して、さっき買って貰った食玩の封を開けたいと思っていた私だったが、母達の会話の中に気になる内容のものがあり、耳を傾けた。
十年前の夏、私が泊めてもらった友達の家の近くの歩道に、飲酒運転の車が突っ込むという事故があったというのだ。
歩道に立っていた親子は重体ですぐに病院に運び込まれたが、間もなく息を引き取ったという。
その日の夜、私は事故に合った親子を友達の家で見たと両親に話した。
しかし、父は『夢でも見たんだろう』と相手にしてくれなかった。この手の話を酷く嫌う母に至っては『不謹慎な事を言うな』と、私を叱り飛ばした。
他人には見えないものが見えてしまう。自分がそんな特殊な人間である事を知り、いつかそれが大きな災いとなって降りかかるのではないかと危惧した。
そして、その不安が現実のものとなるのに時間はかからなかった。
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