第十八話 『ラブドール』村寺芳夫

 何もかも失った人間が、一体どんな表情をしているのか知りたかった。


 退職手続きを終えた帰り道。空がぼんやりと暗くなり始めた。


 人通りの多い歩道に立ち止まって携帯電話を取り出し、カメラ機能を使って自分の顔を撮る。


 たった今無職になった三十六歳の男が、道端で自撮りをしているのだ。きっと、悲痛に塗れた顔をしているに違いない。


 だが実際に撮影された画像を見てみると、なんてことはない、いつもと変らない顔だった。

 無表情に見えるが、よく見ると少しニヤけているように見える。瞼は半分閉じていてまるで寝起きの様だ。


 こんなに頼り無さそうに見える私でも、少し前までは婚約者がいたのだ。


 いつまで経っても出世出来ず、結婚に踏み切れない私に愛想を尽かして去ってしまった。


 会社ではあっという間に部下が上司になり、どんどん肩身が狭くなっていった。仕事の出来ない私に向けられる視線は耐え難く、陰で蔑まれ、まともに会話も出来なくなった。


 結婚している年下の上司に『これだから独身の男はダメなんだ』と言われた時、会社から去る事を決めた。


 仕事が出来るように、結婚が出来るように努力をしても、結果が出なければ何も残らない。自分では意味があったのだとどれだけ思い込んだところで、それは他人に伝わらない。他人からすれば、私は何も努力をしてこなかった人間なのだ。


 そうは言っても、私は誰かを恨んでいる訳ではない。社会が腐っているなどとも思っていない。ただ、この世には幸せになれる人と、そうではない人がいるという事を理解しただけだ。


 平日の街中を歩きながら頭に浮かぶのは、そんな事ばかりだ。


 もう何も考えたくはない。何もかも忘れたい。忘れなければ。そうしなければ、自分が存在している事すら否定して、良からぬ行動に出てしまいそうだった。


 裏通りに入った時、不意にとある看板が目に入った。通勤途中に毎日、目にしていた看板だ。オレンジ色の電飾に囲まれたスペースに『蜜柑色』と書かれている。若い女性と体を弄り合いながら会話をするいかがわしい店だ。


 自慢と言っていいのか、それとも恥じるべきなのか解らないが、私はこういう類の店に入った事が一度もない。


 長い期間、交際した女性がいたせいもあるかも知れないが、この店に興味を持った事もない。


 金を払って偽りの愛を得る者に、真の愛が訪れる事はないというポリシーがあった。それを貫き通した結果が今の私なのだろう。


 気付いたら看板の前で立ち止まっていた。


 この店に入って、何もかも忘れてしまいたい。忘れる事など出来るはずもないだろうが、ほんの一時でも、別れた婚約者や会社の事を頭の隅に追いやれるかも知れない。いつも何気なく通り過ぎていたこの店に、こんなに入ってみたいという欲求が生まれる事になろうとは。


 真の愛は手に入らなかった。だからと言ってこれまで貫いてきたポリシーを破ってしまえば、今よりもっといたたまれない気持ちになってしまうのではないか。そうなれば、とてつもない自責の念に耐え切れず自ら命を断ってしまいそうだ。


 これ以上、自分を貶める事はない。


 そう思いながらも、足が一歩、店の入口へと進む。


 こんなところを誰かに見られでもしたらどうするんだ。そう考えてからすぐ、私に関係がある者などもう誰もいない事を思い出した。


 ドアを潜り、細い階段を上っていく。上の階から鳴り響いてくる重低音が近付く。やがて重低音に騒々しいメロディーが重なり始めた頃、ソファーが並べられた部屋に辿り着いた。


 奥のカーテンが開き、随分と若い男性が姿を現す。


「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」


 男性に声を掛けられてようやく、自分は己のポリシーを破ったのだと実感した。 


 もう十分だろう。何かを失わない為に考えたくない事を考え、やりたくない事をし続ける日々に心底疲れ果てたのだ。今更どれだけ取り繕ったところで何の意味があるのか。自分が真面目な人間であると主張したところで、一体誰が見ているのか。


 気力は底を尽きた。もう一度初めから人生をやり直そうという気概は微塵もない。それならばとことん堕落して、現実から逃げ続けた方がまだ生きている実感が湧くのではないか。


 どうしてこうなってしまったのか。どこで道を外れてしまったのだろうか。溢れ出す気持ちが涙となって私の頬を伝っていた。


「……お客様?」


 私を見つめる男性は、驚いていると言うよりは少し迷惑そうな表情を浮かべていた。


 スーツの袖で涙を拭う。


「いや、申し訳ない。なんでもありません」


「それで、どうなさいますか?」


「はい?」


「ご指名があれば、言って頂ければ」


「ゴシ……?」


 男性の手が指し示す方向を見た。若い女性の顔写真が何枚か壁に貼られている。

 選ぶのか? あぁ、『ご指名』と言ったのか。


 ただ孤独を遠ざけたいだけなのだから、相手が誰でも構わない。


「特にありません」


「かしこまりました。それではこちらで決めさせて頂きますね。では一万円お願いします」


 財布から一万円札を取り出して渡す。


 思えばここ十数年、娯楽にお金を使うなどという事をしていなかった。週に何度も仕事帰りに居酒屋へ行き、一緒にいたくない上司と飲みたくもない酒を飲む為に給料を溶かしていただけだ。


 長年勤めていた会社を辞め、初めに金を使う場所がこの店になろうとは。


「一名様入りまーす」


 男性はそう言ってカーテンを開いた。


 大音量で流れる騒がしい曲と、様々な色が目まぐるしく変化して点滅する照明の中、腰の高さほどの壁で隔たれたフラットシートの個室に案内された。鞄を置いてシートに腰を掛ける。


「すぐに女の子来ますので」


 男性が去った後、壁に貼られている料金表を眺めた。


 四十五分で一万円。


 永遠に続く雑用、そして冷たい視線と陰口に一日耐えて手に入れた私の一万円が、わずか四十五分で消えてなくなる。それでも、何十杯も飲みたくない酒に使うよりかは余程有意義だ。


 目を閉じて俯くと、仕事をしている自分が頭の中に浮かぶ。


 もう明日から会社に行く事もない。一体、これから自分はどうするのだろうか。


 それにしても、ここはどうも落ち着かない場所だ。店内に流れる曲や目に悪そうな照明もそうだが、こんな狭い空間で女性と体を弄り合うなど考えられない。


「こんばんは」


 その声ははっきりと聴こえた。


 激しく鳴り響いていた曲の音量が、一気に下がった様にさえ感じた。


 目を開けて顔を上げると、女性が立っていた。


 胸元が大きく開いた水色のサマードレスは暗い照明のせいで白く見えた。整った顔立ちをしていて、少し垂れ気味の目が可愛らしい。胸までかかる長い髪はブラウンがかった色をしている様に見えたが、こちらも照明のせいではっきりとした色は解らない。


「ど、どうも」


「ハナです。よろしくお願いします」

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