第十九話 『ラブドール』② 村寺芳夫
ハナは深くお辞儀をした後、一歩近付く。
「座ってもいいですか?」
「あぁ、どうぞ」
私は座ったままの体勢で少し横にずれた。
心の奥まで見透かされそうな眼差しで柔らかく微笑むハナを注視出来ず、目を逸らしてしまった。
「どうしたんですか?」
「いや、失礼。なんというか、驚いてしまって」
「驚く? どうして?」
「それは…… こんなに綺麗な子が来るとは、思っていなかったもので」
会社では毎日お世辞を口にする事に慣れていたが、これは本心だ。他人に本音を話したのは、いつ以来だろうか。
「うれしい。ありがとうございます」
ハナがそう言って立ち上がり、私の膝の上に跨って来たので動揺してしまった。
「ちょ…… っと」
「あっ、ごめんなさい。痛かったですか?」
「いや、そうではなく…… その、こういう店は初めてなもので」
「そうだったんですか? それはごめんなさい」
私は仮にもかつて婚約者がいた身だ。童貞という訳ではない。しかし、会って数分の、おそらく十以上も年の離れている女の子と体をすり合わせるのにはどうも尻込みしてしまう。
再び私の横に座ったハナが会話を再開する。
「今日はお仕事帰りですか?」
そう質問されて、私は自分の服装を確認した。そうか、スーツを着ているのだから、仕事帰りだと思うのが普通だ。退職の手続きをする事を仕事の内に含んでもいいのかどうか。会社へ行った帰りである事は確かだが。
「ええ、そうです」
「どんなお仕事をされてるんですか?」
「普通の…… サラリーマンです」
今日、仕事を辞めて来たと話すつもりはない。そんな話を聞いてもらう為にこの店に入った訳ではないのだ。
「お疲れ様です」
ハナは座ったままで丁寧にお辞儀をした。
それから私が質問をし、ハナがそれに答える形で時間が過ぎていった。
しばらくしてボーイが現れ、時間終了の報告をした後、延長するかどうか確認してきた。
ハナとの会話に心地よさを感じていた私は、悩む事なく財布から一万円札を取り出してボーイに手渡した。
「ありがとうございます。いいんですか?」
ハナが心配そうにそう言った。
「いいんですか? とは?」
「その、初めてなんですよね。こういうお店来るの。ほんとに私なんかでいいのかなって」
どういう意味だろうか。この店には他にもたくさん女性がいるが、その中で自分だけに時間と金を費やしていいのか、という事だろうか。私の中で、そこは全く吟味するところではない。
「いいんだ。構わない」
「ありがとうございます。ほんとにうれしい」
ハナとの会話は続いた。四十五分毎にボーイが現れ、その度に一万円札を渡して延長を繰り返した。
「ハナちゃんは、何か趣味とかあるの?」
「趣味? ……趣味なのかどうかわからないけど、写真が好きです」
「写真?」
「そう。カメラで風景を撮ったりとか」
「へぇ。どんな景色が好きなの? 山とか、海とか?」
「山も海も好きなんですけど、本当に好きな景色は、時間帯に寄って変わるんです」
「時間? そうなんだ。奥が深いね」
「夕焼け。真っ赤な夕陽に染まる景色が一番好きなんです」
「夕焼けかぁ。すごいわかるよ。綺麗だよね」
淀みなく進んでいた会話が一旦止まり、ハナが少し俯いた。
「わたし、子供の頃、すごく不思議な事があって」
「すみませんお客様」
ボーイがハナの話を遮る。
私は何も言わず財布から一万円札を取り出した。
「お客様、申し訳ございません。当店間もなく閉店のお時間となりまして……」
そんなバカな。心の中でそう叫び、腕時計を確認する。一体何時間ここにいたのだろう。
『時が経つのを忘れて』とはまさにこの事だ。会社で過ごした永遠にも続くかの様な一日を思い出してみる。楽しい時間というのはこんなにも早く過ぎるものなのか。
「わかりました。出ます」
「ありがとうございました」
ボーイが一礼して去った後、私は鞄を持って立ち上がった。それに合わせるようにハナも立ち上がる。
「今日はありがとうございました。これ、私の名刺です」
「いや、こちらこそ、本当に楽しかった。本当に」
「触らなくてよかったんですか?」
ハナはそう言って、襟を掴み、衣服を少しはだけさせた。
「ごめんね。触りたくない訳じゃない。でも、話しているだけで十分楽しかったんだ」
「ありがとう。お名前、聞いてもいいですか?」
「
名前を聞かれて即答した自分に驚いた。名前など覚えてもらう必要はないだろう。なのに何故、即答したのだ。通うつもりなのか、私は。
「村寺さん…… じゃあムラさんって呼びますね。また来てくださいね」
「ああ、また来るよ。では、さようなら」
笑顔で手を振るハナを見つめた後、階段を降りてビルの外へ出た。人通りも疎らになった道を歩き、自宅のアパートへと向かう。
一体、いくら使ったのだ。
いや、よそう。そんな事を考えても無駄だ。それよりも、これからどうするか考えるべきだろう。それは解っている。解っているが、職を探す気には到底なれない。もう少し、時間が必要だ。
『生きていたい』という感触が欲しい。生きている事の意味を取り戻したい。それがなければ、気持ちを切り替える事など出来ないだろう。それまでだ。それまでの間なら構わないだろう。
ハナから受け取った名刺を眺めて考える。ハナと話し続ける事で、生きる事への意欲が湧いてくるのなら、金をつぎ込む事にも意味があるのではないだろうか。
だが、湧かなければどうする? 結局、無駄に金と時間を浪費して、虚しさと後悔だけが膨れ上がる事になるとしたら?
その時はそれでもう構わない。今の貯金が私の寿命になるだけだ。
それからの生活は実に滑稽なものだった。
毎朝、怒鳴られながら仕事をする夢を見て起床する。洗濯と掃除を済ませてスーパーに出掛け、食べ物を買い漁る。帰宅して食事を済ませたら、何をする訳でもなく部屋に寝転び、退職したことを後悔した後、辞めていなかったら今頃死んでいたかもしれないと考えて自分の選択を肯定する。
日が暮れてくると、ハナの名刺を眺める。月曜から金曜の平日五日間、ハナが出勤している事を確認してからシャワーを浴び、スーツに着替える。
会社帰りを装って、蜜柑色へ向かう。そして、ハナとの時間を過ごす。
さすがに毎日閉店まで居座る事はないが、それでも毎回、最低二回は延長していた。
二週間ほど、そんな毎日を繰り返した。
「ムラさん、ほんとに大丈夫ですか?」
「なにが?」
「毎日来てくれてるから、うれしいけど…… お金、使うでしょ」
「いいんだよ。大丈夫だから」
「ほんとに? ありがとう」
「それより、あの話の続きを聞かせてくれないかな」
「あの話って?」
「初めて会った時に話してたこと。夕焼けが好きっていう話」
「夕焼け大好き。ほんとに好きなんです」
「そう、それで子供の頃、不思議な事があったって」
私がそう言うと、ハナは口を開けて首を傾げた。
「なんですか? それ」
「言ってなかった? 不思議な事があったって。そこで時間が来ちゃって、続き聞けなかったんだけどさ」
「わたしそんな事、言いましたっけ?」
私が勘違いをしている訳ではないだろう。はっきりと覚えているのだから。きっと、その話をするのに何か不都合な事が出来たのだ。それならば無理に聞き出すつもりはない。この子を困らせるような事はしたくない。
「そっか。誰かの話と間違えたのかな。そうだ、ハナちゃんは、何か夢とかあるのかな?」
「夢ですか? ありますよ」
「教えて」
「どこか、遠くに行って暮らしたいです。妹と二人で」
「妹さんいるんだ。それは知らなかったな」
「そうなんですよ。わたしこう見えてもお姉ちゃんなんです」
「しっかりしてるじゃないか。遠くで暮らすって、外国とか?」
「別に外国じゃなくてもいいんですけど、夕焼けが綺麗なところがいいなって」
「夕焼けほんと好きなんだね」
「うん。大好き。すごく綺麗な夕焼けの中で暮らしたくて。でも、日本にそんな場所なかなかないかなって。だから、世界中をまわって探してみたいんです。妹と一緒に」
「妹さんと仲良いんだね。世界中をまわるとなると、お金がたくさん必要だね」
「そうなんです。だからここで働いて、お金を貯めようと思って」
「夢のために頑張ってるんだね」
夢のために頑張るという事を、私はした事があっただろうか。しいて言えば、婚約者だったサヤカと結婚する事が夢だったかもしれない。
だが、私は本当にその夢を叶えるために努力していたのだろうか。本当に、サヤカと結婚したいと心から思っていたのだろうか。今となっては、それも曖昧で、そして既にどうでもいい事である。
その日の帰り道、静まり返った住宅街を歩きながら、泣いた。
夢のために身を削り働く若い女性と、職を手放し貯金を浪費する自分を対比し、情けなさに身を駆られた。
このままこんな生活を続けても、圧倒的な孤独が更に増していくだけだ。どれだけ店に通い続けたところで、ハナが自分のものになる訳でもない。職が見つかる訳でもない。サヤカが帰って来ることもない。
無意味だ。
職を探し、もう一度初めからやりなおす気力は依然湧かない。職が見つかったところで、生きている意味などない。
生きていることが、無意味だ。
立ち並ぶ住宅の向こうに、闇に覆われた山が見えた。職場の人に聞いた事がある。あそこは、自殺の名所らしい。
孤独に苛まれて命を絶つのなら、同じ決断をしてこの世から去った人達とともにいたいものだ。
死ぬなら、あの山がいい。
自宅のアパートが見え始めた頃、ゴミ捨て場が目に入って溜息をついた。そうだ、明日は燃えるゴミの日だ。部屋のゴミを出さなければ。
アパート前の駐車場に、シルバーのセダンが見える。私の車だ。婚約者がいた頃、デートに行くためだけに買ったものだ。別れてからというもの、あれに乗って何処かに出掛けた記憶はない。
いつも通りアパートの階段を上ろうとした時、信じられないものが目に入った。
足だ。
ゴミ捨て場から、人の足が伸びている。
「ひっ……!」
思わず声を上げてしまう。
怯えながらゆっくりと近付くと、電柱の明かりに照らされた『それ』が見えた。
「なんだこりゃ……」
ダッチワイフ、いや、ラブドールというやつだ。
裸のまま、随分と土に汚れた状態で捨てられている。
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