第三十八話 『導く羽』② 峰川志織

「ねぇ…… 君、携帯持ってる?」


「それが、私も落としちゃったんですよ。ごめんなさい」


 そう答えると、男は立ち上がり辺りを見回し始めた。


「あの、どうしたんですか?」


 挙動不審な男の姿に少し怯えながら声をかける。


 男は私の質問に答える事なく床に這い蹲り、腐食して剥がれた床の先を折った。


 手にした木片の先で、床を擦り出す。


「ごめん。ごめんね。俺、死にたくないから。本当にごめん」


 謝りながら一心不乱に床を削っている男の奇行に、恐怖を感じた。


 床に何かを書き終えて立ち上がった男が木片を投げ捨てる。


「ごめん。許して。ごめんなさい」


 涙を流しながら男が詰め寄ってくる。


「なにがですか? ちょっと…… 落ち着いてください」


「ねぇ、あれ、読んでくれない? 頼むよ」


 男がそう言って床を指差す。


「読んでくれるだけで助かるんだ。まだ生きられる。だからお願いだよ」


 男が私の両肩を掴む。


 床に書いた文字を私が読む事で、何故この人が助かるのか理解出来ない。それを質問してもまともに答えてくれそうにもない。


 とにかく言う通りにして、落ち着かせてあげなくては。


「わかりましたから! 離してください」


「ごめん、ごめんなさい、ありがとう」


 泣きながら再び蹲る男を横切り、床に視線を向ける。


 男が何かにとり憑かれたように夢中で床に書いたその文字は、助けを求めるメッセージでも遺書でもない。『ミノガミサゲスヨヘタヘオサマ』と刻まれた、意味不明なカタカナの羅列だった。


「これを読めばいいんですか?」


「うぅ…… ぐっ…… うぐぅ」


 蹲り咽び泣く男は、もう言葉を発する余裕もないようだ。


 床に刻まれた文字を左から順番に音読していく。


「ミ… ノ… ガ… ミ…」


 背後から聞こえる男の泣き声が大きくなる。


「サ… ゲ… ス… ヨ…」


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


「ヘ… タ… ヘ… オ… サ…」


「うわあああ!」


 男の叫び声が聞こえ振り向く。


 目に飛び込んできた光景が鼓動を揺らし、息を呑む。


「きゃあっ!」


 男の叫び声より大きな私の悲鳴が屋内に木霊した。


 人型の白い靄。それに首を掴まれている男と目が合う。


 私はその場に倒れこみ、得体の知れない何かに首を絞められている男をただ眺める事しか出来ない。


「たす…… け…」


 助けを求める男の声が耳に届く。


 その悲痛な叫びは、恐怖のあまりに動けなくなった私の正気を呼び起こした。


 助けなきゃ。


 そう思った時には既に、白い何かの背中に向かって拳を振り下ろしていた。


 思い切り叩くつもりだった。それなのに、振り下ろした腕は白い何かの体をすり抜け、私は勢い良く床に倒れこんだ。


 顔を上げると、青ざめて宙を見つめる男の顔が目に入った。


 白い何かは動かなくなった男から手を離し、私を見下ろす。


 目の前に伸びてくる腕を振り払おうとしたが、やはりすり抜ける。


 立ち上がり、後ずさる。


 背中に壁の感触を感じて止まる。


「いや…… いやぁ!」


 追い詰められた私に向かって伸びてくる腕を両手で叩き落とそうとするが、触れる事が出来ない。


 やがて白い腕が私の首に触れた。冷たい感触が首に伝わった時、私は全てを覚悟して目を閉じた。





 入口のドアが勢い良く開く音が聞こえた。


 続けて近くで激しい物音が鳴り響く。何かが壁を強く叩きつける音。


 同時に私の首から冷たい感触が消える。 


「逃げるんだ! 早く!」


 誰かの叫び声が聞こえて目を開ける。


 私の首を掴もうとしていたはずの白い何かを壁に押さえつけているのは、軍手をはめたスーツ姿の男性だった。橋の上で私から万年筆を奪った男とは違う人だ。


 その男性は、触れる事すら出来ないはずの白い何かの首をしっかりと掴んでいた。


「逃げなさいってば!」


 男性が私にもう一度声をかけると同時に、男性の背後にもう一体の白い何かが現れる。

 その白い何かは、男性が押さえつけているものよりも一回り大きい。


「ム… ラ… デラァ」


 大きな白い何かは、おぞましい呻き声のような言葉を発しながら男性に白い腕を伸ばす。


「早く!」


 私を助けてくれようとしている人を、見捨てるなんて出来ない。でも、私にはどうする事も出来ないのも事実だ。


「でも…… でも!」


「いいから! 私は大丈夫だから! 逃げて!」


「ごめんなさい!」


 入口に向かって全力で走る。


 パークセンターの外に飛び出した時、目の前を横切り飛んでいくメンフクロウが見えた。


「あっ…… 待って!」


 夕焼けの空を飛ぶ梟に向かって叫び、追いかけた。


 どれだけ息が切れようと、梟を見失わないように走り続けた。


「あなたは羽白くんなの? それとも、羽白くんの居場所を知ってるの? だったらお願いだよ! 羽白くんが何処にいるか教えて!」


 私の声が梟に届いているのか解らない。届いていても、ただの梟なら人間の言葉なんか通じない。それでも、構わず叫び続けた。そして走った。


 やがて梟が降下し始め、小さな小屋の上に降り立った。


 速度を緩め、呼吸を整えながら小屋へと近付く。


 再び梟が飛び立つ。


「待ってよ!」


 追いかけようとした私の視界の隅で、ゆっくりと開く小屋の扉が見えた。


 小屋の中から出てきたその人物を見た私の中に、様々な感情が湧き上がる。


 途方も無い心配をかけさせた事による怒り、力になれなかった事による情けなさ。


 でも、一番大きな感情は、安堵だ。


 それを証明するかのように、私の瞳から涙が溢れ出した。


「羽白くん……」


「峰川さん? なんでここに」


不安と驚きが入り混じった表情で私を見つめる羽白くんが、そこにいた。

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