第二十九話 『楽園』由良貴信
それを知った日、先生から『亡者の楽園』についての話を聞いた。
私がミルクを混ぜたコーヒーを持ってオフィスに入ると、先生はいつも通り机に向かって仕事をしていた。
その日は
「お疲れ様です。一息入れませんか」
私がコーヒーを机に置くと、先生は眼鏡を外して目頭を押さえた。
「ありがとう」
「それは何の資料ですか?」
「
「亡者の楽園?」
「
先生は一度コーヒーカップを手に取ったが、口に入れる事なく話を続けた。
「呪物を見つけては呪いを解く事を繰り返していくうち、『何故呪物は生み出されるのか』という疑問に辿り着いたのが始まりです。『亡者』というのは、どういった者を指すのかは知っていますね?」
「はい。現世に対して強い未練や怨念を抱いたまま命を落とし、成仏する事が出来ない、または成仏する事を拒む霊の事です」
「そうです。そして亡者は未練や怨念を現世に伝えるために『物』に呪いを込めます。それが呪物となり、手にした人間に災いをもたらします」
私は幼い頃に手にした紫色のハンカチを思い出していた。
「これまで呪物には私怨が込められた物が数多くありました。亡者が人間であった時に強い恨みを向けていた特定の人物に対してのみ、呪いが働くといったものです。しかし近年、少し様子が変わってきました。呪物を手にした者を無差別に呪うものが増えて来たのです。個人への恨みというより、この世の在り方そのものに向けての憎悪を持つ人が増えてきたせいでしょうか」
先生の話に耳を傾けてはいたが、コーヒーが冷めてしまうのではないかと気になっていた。
「
死んだ後の人間の気持ちなど、生きている者には解るはずもないだろう。どれだけ現世に未練を持っていたとしても、失った命を取り戻す事は出来ない。
『普通の人と同じ生き方が出来ないのなら、人と違った生き方もある』というのは私の父の言葉だが、命ある人間として生きられないのなら、命なき人間としての生き方もあるのだろうか。死んでいるのに『生き方』というのも変だが。
「成仏する事を拒むほどの怨念を持っているのなら、その恨みを晴らすための手段を考えるのではないでしょうか。他の亡者と意思の疎通が可能ならば、共に協力し合おうとするかもしれません」
私が質問に答えると、先生は机の上に置かれた分厚い本のページを捲り始めた。
「まさにその結果生まれたのが、亡者の楽園だと言われています」
「その結果、というのは、亡者たちが協力し合った結果、という事ですか?」
「無数の亡者たちが留まる場所で、亡者たちがそこで第二の人生を歩むために世界を構築するのです。現世で得られる事のなかった幸せを叶えるため、現世でもあの世でもない『境目の世界』で」
三途の川を渡る事を拒み、そこで自分たちの世界を創り出す。現世とは違う別の世界で亡者たちが幸せに暮らしていくだけなら、私たち生きている者にとって特に問題はないように思える。だが、おそらくそうはいかないのだろう。亡者たちには怨念がある。現世の者への強い恨みが。
先生がようやくコーヒーカップを口に近付けたが、香りを嗅いだだけで飲む事はしなかった。
「境目の世界には『天』、つまりあの世への入口があると言われています。成仏する事を拒みながら境目の世界で存在し続けようとする亡者たちにとって、この入口は非常に邪魔なものになります。そして、この入口の扉を塞ぐためにより強大な呪いの力が必要になります」
「その力を拡大するために生み出したのが、呪物」
「そうです。凶悪な呪いを内包した呪物は無差別に人の命を奪い、呪物によって命を落とした人間は亡者となって楽園に留まり、扉を塞ぐための呪いの糧となります。楽園に留まる亡者の数を更に増やすために、呪物を生み出しているのです」
増加する人口。一方で寿命を全うする事なく道半ばで不本意に命を落とした人間の中に、亡者となってしまった者は少なくないかもしれない。
犯罪者によって命を奪われた者、事故死、病死、自殺。どれだけ科学が進歩したところで、私たちはこれらの事象を止める事は出来ない。
生きている人間が『生きる』ために世界を創っていく。
どれだけ大きな地震が起きても、超高層ビルは増えていく。飛行機が何機墜落しようと、空港は増え続け人は空を飛び続ける。どれだけの街が吹き飛んでも、戦争は終わる事なく核爆弾やミサイルは製造される。
現世の人間にとって、事故や病死で命を落とした者は『不運』であり、自殺した者は『勝手に死んだ者』なのだ。
人間は犠牲なくして進歩する事が出来ない。
犠牲となった者たちが境目の世界で理想の楽園を創り出し、『天』への扉を塞いだ時、一体何が起こるのか。
「扉が塞がれると、どうなってしまうのですか?」
私がそう質問すると、先生は外していた眼鏡をかけてこっちを向いた。
「現世が飲み込まれます。現世と境目の世界が繋がり、現世の全てが亡者の楽園になります」
それからも先生は話を続けた。
『天』への扉が塞がれた後、楽園と現世を繋ぐ入口を開く『楽園への扉』となる人間と、その扉を開く『鍵』となる人間が必要であるという事。
今の私にはその意味が解る。
亡者たちによって『扉』に選ばれたのが
しかし何故、彼女たちが選ばれたのかは解らない。
「扉と鍵に選ばれた人間は、亡者たちの意識が入り込んでいきます。自分が亡者たちによって動かされている事に気付くことなく、楽園への扉を開くために行動する様になります。次第に扉を開くための障害となる様な事も、無意識に避ける様になっていきます。鍵に選ばれた人間には、『鍵』としての力を持った呪物が授けられます。それが一体どういった形の物なのかは解っていません」
「境目の世界とは…… 亡者の楽園とは一体どんな世界なのですか?」
「夕焼けの様に全てが赤く染まった世界であると、この本には記されています」
「もし、楽園と現世の扉が繋がってしまったら、亡者の楽園に飲み込まれた私たちはどうなるのですか?」
「亡者たちによって命を奪われ、彼らと同様に亡者となってしまうでしょう。塞がれた『天』への扉が開かない限り、現世と楽園を引き離す事は出来ません」
その時の私は、先生から次々に伝えられる多くの情報を整理出来なくなっていた。
先生はそんな私に気が付いていたのだろう。だから『呪物の三原則』について話してくれた。
「少し話し過ぎましたね。今の話を今すぐ全て覚える必要はありません。ですから、三点だけ、今日覚えてください。呪物の三原則です」
「わかりました」
「その1・呪物によって命を落とした者は必ず亡者になる。
その2・呪物を使用した者は亡者の姿が見える様になる。
その3・呪物を使用した者が亡者の楽園に飲み込まれた場合、例え『天』への扉を開けて現世と楽園を引き離したとしても現世に戻る事は出来ない」
「三つ目はどういう事ですか? 呪物を一度でも使用した人間が楽園から戻る方法はないのですか?」
「呪物を使用した者はその魂が亡者と同じ性質の物になります。『天』は亡者を浄化し成仏させますが、呪物を使用した者も亡者と見做され、同様に天へと還って行きます。呪物を除呪し、使用者との呪いを完全に絶つ事が出来れば現世に戻って来られる可能性はあります。しかし、亡者の怨念が強い楽園の中で除呪を果たす事はとても困難でしょう。おそらく、私でもそれを成す事が出来ないほどに」
「一度混ざり合ってしまった物を引き離すのは難しい……と言う事ですね」
「ええ。このカップの中からミルクだけを引き離すほど困難です」
先生はカップを手に取って眉を八の字に曲げた。そして申し訳なさそうな表情と声で言った。
「ごめんなさい。ブラックしか飲めないのです」
先生は折山陽子からの手紙を読み、全てを察したのだろう。
そして私と茜を巻き込まない様に、行き先を告げずに彼女の元へ向かった。
自殺者の集まる山奥の公園。
私は不覚にも、鍵である『夕焼けの写真』を所持した折山陽子に出会っておきながら、楽園の扉が開かれるのを阻止する事が出来なかった。
「由良さん」
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