第5話 待ち伏せのち転移
明和七年九月十七日、豆州伊豆国は快晴に恵まれ、箱根山麓から続く山稜の
下生えの隙間に細々と続く街道に、時折、大楠の葉音が満ちて伝わってゆく。
樹冠の切れ間から偶に見える富士の高嶺は、朱に染まり始めていた。
旅装の若侍と初老の従者、二人連れの武家が薄暮の往還を下ってくる。
小田兵庫こと明楽允景と、御庭番の先達であり剣の師匠である小野忠助であった。
忠助は八王子千人同心の三男として生まれ、農業と野鍛冶を手伝いつつ、道場へ通い、若くして甲源一刀流の
忠助は武田家に縁のある小山田氏と外戚となった神職の傍系にあたり、つながりは全くないのだが、素質を見込んでそのような話を通したのであろうと忠助は推測している。
苦労しながら道場の
忠助が陣笠を上げ、指をさす。
「大盛飯のように見ゆるあの山が
「下役登用ならわかるが、なぜに京……」
和薬種改会所の見習いである同輩の恨みがましい声を背に受けながら、会所を退き、わらじを履いたのが三日前。平塚の手前で川止めがあり一日ほど待たされ、急ぎ箱根を越えてきたのだ。
伊豆国代官、江川太郎左衛門も
狩野川河畔に下る山中で陽が落ち、薄くたなびく雲に富士の影が細く伸びた。
「そろそろ出てこぬと、飯時に間に合わぬぞ」
忠助が独りごちると、闇に濃密な気配が満ちた。
狭い往還の前後を詰めるように、農家の形をした
「和薬種改会所役人、小田兵庫一行と知っての狼藉か」
忠助が
「答えぬか……降りかかる火の粉は払わねばならぬ」
允景と忠助は、素早く前後を入れ替え、背を合わせ、刀袋から覗かせておいた柄に手をかけ抜刀し、前後の敵に相対すると、二人が構えるのを待たず、男衆は殺到してきた。
主の背を守ると思われた忠助が、素早く間を詰め、瞬速の
男は、信じられぬものを見たかのように目を見開かせた。溜まっていた息がこじられた傷口から抜ける。直後に前蹴りをくらい吹き飛ぶと、見開いた目が裏返った。
允影は正眼から切り落とし狙うが、読んでいた相手は勢いそのままに、振るわれた刀身に打ち付けるように、直刀の峰に右手を添え、押し出しながら、右脇に飛ぶ。
「くっ」
刀が折れるのを嫌い、切り落としを左へ流す。直後に一人目の脇から、二人目が打突してくるのが目に映った、直刀ではなく仕込み槍で、小柄ほどもない刃がキリのようについていた。
先に直刀を抜いて見せていたのは、この仕込み槍のためだったと気づく。左に転化するように見せかけ、左後ろに退きつつ、刀身で仕込み槍の
ぞぶりとした肉のくぐもり、ぶつっという筋が縮む弾け、スッと骨をなぞる手触りが、刃先が滑る感覚に混ざってくる。
一人目が体制を整える間に、膝裏を切られ崩れようとしている二人目のうなじを、右に転化しながら断つ。前から襲ってきた来た三人の男衆の最後が、忠助の
「残りはお主だけだが、何ぞ言うことはないか」
浅手を負った男との間を詰める。前後を挟まれたと覚った男は、意表を突こうと一瞬逃げる気配を見せ、即座に允景に駆け寄る、がしかし、凄まじい速さで殺到した忠助の刃が、その背を割る。肋骨を断つ濁音を連続して響かせた後に、そのまま刺突し、臓腑を断ち、止めを刺す。
荒々しい気配が去り、虫の鳴き声が戻りだす、富士は藍に浮かぶ影だけになっていた。
允景は血振りをくれ。
「狙われる謂われが思いつかんが」
誰とはなしに問う。忠助は倒れた男衆の服に刀をこすりつけ、血を拭っている。
「口を割らせようかとも思うたが、切られても
いつもと変わらぬ口調で応じ、切っ先で
「身元が分かるようなものも何一つ身に着けてはおるまい、どうせ
興味を無くしたように、空いた片手で鹿皮を取り出し刀身をしごきだす。
相手が藪をつついて蛇をだしたとは、勘働きが如何ように速くとも気付くわけもない。
「師匠の二人目はどのようにすれば、このような切り口になるのか、興が湧く」
鼻から上の頭蓋が切り飛ばされ、髄液と血液が縞のように流れ出している男の死体を允景は見下ろした。
「年の功で華を持たせてもろたわい」
しゃぁしゃぁと忠助は
役人らしく見せるため、月明かりを頼りに死人を道脇に並べる。番所に声をかけに言く態で去ったあと、何者かに回収されるであろう。そうこうしていると、空が北西から赤く染まり始め、孔雀の羽のように広がり、空が燃えていると見紛うような光を発し始めた。
照らされた忠助の顔がはっきりと見える。
「
允景は赤く染まった空を見やる。律動し始めた赤気の一部が、まとまり始めている様に感じたと同時に、一筋の眩い光が時を待たず伸び、允景を貫く。轟音とともに熱量のない光を発し、允景は消えた。
往還の真ん中に呆然とただ独り立つ忠助を、赤気がゆらゆらと照らし続けていた。
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