第5話 待ち伏せのち転移

 明和七年九月十七日、豆州伊豆国は快晴に恵まれ、箱根山麓から続く山稜の韮山往還にらやまおうかんには、駿河灘から心地よい風が吹きあげていた。

 下生えの隙間に細々と続く街道に、時折、大楠の葉音が満ちて伝わってゆく。

 樹冠の切れ間から偶に見える富士の高嶺は、朱に染まり始めていた。


 旅装の若侍と初老の従者、二人連れの武家が薄暮の往還を下ってくる。

 小田兵庫こと明楽允景と、御庭番の先達であり剣の師匠である小野忠助であった。


 忠助は八王子千人同心の三男として生まれ、農業と野鍛冶を手伝いつつ、道場へ通い、若くして甲源一刀流の皆伝かいでん切り紙きりがみを得た。おごりもあって江戸の小野派一刀流の門をたたくも、鼻っ柱を折られた。土下座をして入門を頼み込む忠助を同じ小野姓だと言うことで、道場主が末席に加えてくれた。

 忠助は武田家に縁のある小山田氏と外戚となった神職の傍系にあたり、つながりは全くないのだが、素質を見込んでそのような話を通したのであろうと忠助は推測している。

 束脩そくしゅうは修練の合間に口入れ屋の周旋で働き賄った、幼い頃から手伝っていた野鍛冶が役に立ったが、有名な刀鍛冶に行ったときには、炭ばかり割らされて、顔だけでなく、鼻汁まで黒くったそうだ。炭を割ったとき臭い物があったら除けろと言われ、手ぬぐいを巻かせてもらえなかったからだった。


 苦労しながら道場の高弟こうていになった頃、允次が入門し、稽古をつけたのが切っ掛けで、御庭番の支え役となり、允次亡き後、新之助に剣の手習いを厳しくつけつつ、我が子のように可愛がっていた。忠助は允次をあの日、一人で送り出してしまったという屈託を、新之助に己の技と知識をあらんかぎり注ぐことで折り合いをつけていたのだ。


 忠助が陣笠を上げ、指をさす。

「大盛飯のように見ゆるあの山が葛城山かつらぎやま、手前に代官屋敷がござる」


「下役登用ならわかるが、なぜに京……」

 和薬種改会所の見習いである同輩の恨みがましい声を背に受けながら、会所を退き、わらじを履いたのが三日前。平塚の手前で川止めがあり一日ほど待たされ、急ぎ箱根を越えてきたのだ。



 伊豆国代官、江川太郎左衛門も遠国御用おんごくごようには欠かせない伝手である。探索の掛りが足りなくなった際に代官が代替えしてくれるが、江川家が差配する地は広く、江川家を経由して向かう御用の頻度もまた高い。東海道筋の御用であれば三島陣屋に立ち寄れば良いが、初回は江川家用人に面通りを願うのが筋である。忠助は允次と探索方をこなしたこともあり、江川家用人とは既に面識がある。


 狩野川河畔に下る山中で陽が落ち、薄くたなびく雲に富士の影が細く伸びた。

「そろそろ出てこぬと、飯時に間に合わぬぞ」

 忠助が独りごちると、闇に濃密な気配が満ちた。


 狭い往還の前後を詰めるように、農家の形をした男衆おとこしが、前に三人、後ろに二人、直刀を抜刀したまま現れた。


「和薬種改会所役人、小田兵庫一行と知っての狼藉か」

 忠助が誰何すいかするも応えいらえはなく、するすると間を詰めてくる。

「答えぬか……降りかかる火の粉は払わねばならぬ」


 允景と忠助は、素早く前後を入れ替え、背を合わせ、刀袋から覗かせておいた柄に手をかけ抜刀し、前後の敵に相対すると、二人が構えるのを待たず、男衆は殺到してきた。


 主の背を守ると思われた忠助が、素早く間を詰め、瞬速の突返とっかえしで前から来た一人目の肺腑に穴を開ける。

 男は、信じられぬものを見たかのように目を見開かせた。溜まっていた息がこじられた傷口から抜ける。直後に前蹴りをくらい吹き飛ぶと、見開いた目が裏返った。


 允影は正眼から切り落とし狙うが、読んでいた相手は勢いそのままに、振るわれた刀身に打ち付けるように、直刀の峰に右手を添え、押し出しながら、右脇に飛ぶ。

「くっ」

 刀が折れるのを嫌い、切り落としを左へ流す。直後に一人目の脇から、二人目が打突してくるのが目に映った、直刀ではなく仕込み槍で、小柄ほどもない刃がキリのようについていた。

 先に直刀を抜いて見せていたのは、この仕込み槍のためだったと気づく。左に転化するように見せかけ、左後ろに退きつつ、刀身で仕込み槍の螻蛄首けらくびに当たる部分を絡め、弾かずに下段の逆霞に変えて二人目の踏み出した膝の内側を払う。


 ぞぶりとした肉のくぐもり、ぶつっという筋が縮む弾け、スッと骨をなぞる手触りが、刃先が滑る感覚に混ざってくる。切先きっさきのつもりだったが物打ちが当たっていた、撫で切るように引きながら振り抜く。その勢いを持って着地際の一人目の脇を薙ぐ。切先が届いたが、浅手を負わせるにとどまった。


 一人目が体制を整える間に、膝裏を切られ崩れようとしている二人目のうなじを、右に転化しながら断つ。前から襲ってきた来た三人の男衆の最後が、忠助の鍔割りつばわりで崩れ落ちるのが見えた。允景は、正眼から脇構えにした。

「残りはお主だけだが、何ぞ言うことはないか」

 浅手を負った男との間を詰める。前後を挟まれたと覚った男は、意表を突こうと一瞬逃げる気配を見せ、即座に允景に駆け寄る、がしかし、凄まじい速さで殺到した忠助の刃が、その背を割る。肋骨を断つ濁音を連続して響かせた後に、そのまま刺突し、臓腑を断ち、止めを刺す。


 荒々しい気配が去り、虫の鳴き声が戻りだす、富士は藍に浮かぶ影だけになっていた。


 允景は血振りをくれ。

「狙われる謂われが思いつかんが」

 誰とはなしに問う。忠助は倒れた男衆の服に刀をこすりつけ、血を拭っている。

「口を割らせようかとも思うたが、切られても咳きしわぶき一つ挙げん、惜しいの」

 いつもと変わらぬ口調で応じ、切っ先でたもとを少し持ち上げる。

「身元が分かるようなものも何一つ身に着けてはおるまい、どうせ相州乱破そうしゅうらっぱくずれであろう」

 興味を無くしたように、空いた片手で鹿皮を取り出し刀身をしごきだす。


 相手が藪をつついて蛇をだしたとは、勘働きが如何ように速くとも気付くわけもない。


「師匠の二人目はどのようにすれば、このような切り口になるのか、興が湧く」

 鼻から上の頭蓋が切り飛ばされ、髄液と血液が縞のように流れ出している男の死体を允景は見下ろした。

「年の功で華を持たせてもろたわい」

 しゃぁしゃぁと忠助はうそぶく。允景はわざと隙を見せ、従者である剣術家の忠助に切り捨てさせる形になるように振舞っていた。


 役人らしく見せるため、月明かりを頼りに死人を道脇に並べる。番所に声をかけに言く態で去ったあと、何者かに回収されるであろう。そうこうしていると、空が北西から赤く染まり始め、孔雀の羽のように広がり、空が燃えていると見紛うような光を発し始めた。


 照らされた忠助の顔がはっきりと見える。

赤気せききと言い伝えられる凶兆やもしれぬな、目下に死体は五つ、研ぎに出さねばならぬ刀は二振り、向かうは占術趣味の京……なんとも気が乗らぬ」

 允景は赤く染まった空を見やる。律動し始めた赤気の一部が、まとまり始めている様に感じたと同時に、一筋の眩い光が時を待たず伸び、允景を貫く。轟音とともに熱量のない光を発し、允景は消えた。


 往還の真ん中に呆然とただ独り立つ忠助を、赤気がゆらゆらと照らし続けていた。


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