第3話 御庭番 明楽惣右衛門允景

 明和七年、江戸。


 暑さが和らいだ九月、明楽惣右衛門允景あけらそううえもんまさかげは和薬種改会所の見習い小田兵庫として勤めていた。薄暗い御用部屋に同輩達と長机をならべている。


 允景は御庭番の明楽家の縁者である。父の明楽允次まさつぐは、普段は町人に身をやつし探索を行っており、母のセツの実家は薬研堀やげんぼりで主に病鉢巻やまいはちまきなどを扱う商家であった。セツは允景を生むと産褥さんじょくでこの世を去った。允景には美しかったセツの面影がある。


 生まれた赤子は町人風に新之助と名付けられ、父一人子一人で六歳まで護国寺門前町の音羽の町家で育った。父は実家である明楽家に新之助を預け、遠国に探索に向かう事が幾度かあったが、新之助が九歳の春、いつものように御用に向かい消息を絶った。遺された新之助は、明楽家惣領の明楽茂晴あけらしげはるに扶育され、御庭番の技のみならず、剣術、学問、算術を徹底的に仕込まれた。


 十五歳になったとき、仮名けみょうを武家風に惣右衛門そうえもんと改め、いみなに允景を賜う。御家人小田兵庫を仮初かりそめの姿とし、深川に居宅を構え、算術の私塾の伝手つてを頼るなりをとり、和薬種改会所の役人見習いとして役をもらう。

 そこでは算術の業前わざまえを重宝され、本道のみならず蘭方医学の薬種を扱う機会を得た。薬種の調べを任されるようになると、御庭番の薬込役としての知識や、手習いの合間に母方の実家で聞かされた実地の本草学が役に立った。本役登用かと朋輩の口から聞こえだした頃には、三年が経っていた。


 数人が詰める会所の御用部屋はひっそりとしながらも、それぞれが違う作業を行う様々な音が密やかに響いている。允景の文机の上には、真新しい桐の箱が開けられており、中には金色の丸薬が疎らに並んでいるのが見える。


 懐紙を二つに折り、再び広げ、谷になった部分に桐箱から丸薬を取り出すと、小柄で二つに割り、匂いを確かめた後、こぼれ落ちた薬の粉を薬指に数粒付け、舌で確かめる。


牡丹皮ぼたんぴ桂皮けいひ釣藤鈎ちょうとうこうを加えた丸薬に箔を貼っただけではないか……それで銀二十もんめとはあまりに暴利、口上にある効能には程遠い……」

 呟きつつ顔をあげると、上司である本役の笹井軍兵衛と目があった。笹井は目顔めがんで御用部屋の外へ誘う、まさに小役人といった仕草に允景は内心で笑みを浮かべる。


 数日後には、笹井に御見舞品が薬種店から届くであろうと察せられたが、指摘しては彼の役の旨味がまったくない。彼は小悪ではあるが、金品を手にしつつも役を全うに行う小賢しさがあり、見過ごすことにしている。特に今回の丸薬は分限者向けの性欲向上薬、毒にならない限りは問題なかろうと席を立つ。

「いやむしろろ値を上げるように言うのもありか」


 後日、ほくほく顔の笹井が允景に甘味を持ってきた。浅草の老舗の久寿餅だったので、薬研堀の母の実家に寄り祖母のシマの茶請けにと置いてきた。


 どことなく憎めない悪ぶったしたり顔の笹井を見てから一刻のち、允景は会所を出て家路につく。永代橋を渡り、橋の袂の煮売屋で里芋の煮染めを買う。明かりの灯っていない役宅の押し戸に手をかけながら、踏み石を確かめる。「午」「本家」との合図が象られていた。




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