第37話 渇海条約
青紫の渇海の
断崖のそこかしこから褐色の滝が落ちているのが見えた。がしかし水は渇海に辿り着く前に全て雲となって消えてゆく。
『あの海にこちらの生き物が入れば、一息と持たぬ死の海です。時に高波が断崖を越えて押し寄せるので、海が荒れている時は全ての生き物たちが森の奥へと逃げます』
断崖の遥か下には、巨獣と思われる白骨や風化した大木が
ロウェが眼窩のうねる波を見ながら呟いた。
『ある人が渇海は陽の魔素が溜まった海だと言っていた。冬に降りてくる陰の魔素が使われることで陽の魔素となるのだと』
『我々アールヴは混沌の魔素と呼んでおります。あの海で生きられるのは、あそこで生まれた生物だけと言い伝えられています』
『どのような生物』
『ロウェ様、左手をご覧ください』
飛竜達は身をくねらせて、渇海から次々と飛び出してくる小型の飛獣を
獲物の大型の飛獣を争って奪い合いが始まった。
視点は界面の上を移動し、飛竜の群れに近づいていく。
巨大な飛竜がひしめき合い、頭上を舞う、凄まじい鳴き声が耳朶を震わせるような感覚すら感じさせる。
『凄い数……』
ソウェの驚きが共有された。
『そして凄い罵詈雑言……』
『ソウェ様は、あれが聞き取れるのですか?』
マールトの思念が交じる。
『えっ普通聞こえないのですか?』
『私には聞こえません。ただアールヴの中に稀に彼らの話す言葉のような思念のような物を感じ取れる者が出ます。今の長もその一人です』
『ソウェ、姉である私もギャーギャーとしか聞こえない。特別だと思う』
『さすが鷹のアファリと呼ばれるだけはあります……あっ、そろそろ来ますよ!』
魔獣の奪い合いをしていた飛竜達が争いをやめて、逃げようとした瞬間、渇海から大量の飛獣が飛び出すと同時に、界面が大きく割れ、鮮やかな空色と白の縞状の模様をした巨大な生物の
半眼に開いた巨大な藍色の目が、こちらをじっと見つめながら界面の下へと消えていった。
『……あれは重魔装飛竜ですか?』
『はい。我らアールヴは光竜と呼んでいます。あれは特に大きいので、多分エゥバレェナの系譜に属した一頭でしょう』
『まるで勇魚のようであるな。見た目は海牛にも似ている。それにしても大きい』
『……エゥバレェナ……エゥバレェナ』
ソウェの思念が考えに浸っているのを感じる。
渇海の中から独特な鳴き声が聞こえてくる。低く時に高くなり長い音節を繰り返す。
『あっ歌が同じ! 私がシエナの山で遭った竜と同じ!』
『……聞き間違いでは……』
『竜を見てはいないのですが、たしかにこの歌です。我は賢き者の息子のエゥバレェナと歌っています』
『……光竜は一族の歌に特に拘る……他の一族の歌を歌うことはない……歌でもエゥバレェナと……でもエゥバレェナ一族は……ソウェ様、渇海条約はご存知ですか?』
『ソウェは知らない。私が生きていた頃には存在していない』
『ロウェ様、左様でしたか。説明させて頂きます。まず渇海条約とは、竜の人の国への派遣、渇海の保護、渇海の不可侵を取り決めたもので、人では限られた者しか知らされていないと聞いております』
『マールト、そのようなこと拙等に聞かせても良いのか?』
『大きな借りがある。少しは足しにして貰いたい』
マールトは語るように思念を伝えてきた。
新暦253年、渇海の領有権を巡ってアールヴの複数の国家が互いの主張を声高に唱え退かず、外交的妥協の余地が少なくなってきていた所に、先鋭化した一部の軍属が挑発に乗り突出し紛争へと発展した。紛争の最中、王族が殺害されたのを切っ掛けに次々と国家間で宣戦布告がなされ、中原全体が戦争の惨禍に見舞われた。
戦争は重魔装飛竜を中心とした魔獣師団に魔術師団が加わり、敵対地域に対して無差別な広域攻撃が行われた。
この時、アールヴだけでなく、人の国にも被害が及び、壊滅的な被害をもたらした。
戦後、アールヴは僅かに生き残るもかつての繁栄と力を失い、アールヴに取って代わり人の国家が世界を支配する契機となった。
人の国家連合とエゥバレェナの間で結ばれたのが渇海条約である。
国家連合に恭順の姿勢を見せていたアワシュのアールヴの長がこの条約を結ぶ仲介役となった。
これがシヴォネンのアールヴが特別視される本来の
『渇海条約を表沙汰にしたくない権力者達が魔道教会を使役して記憶を残さぬように嘘の悲劇を作り上げました』
『マグナリアの悲劇がそれですか? 冷害による飢餓で戦乱が起こり、人の半数が亡くなったという』
『はい。シエナは被害に合わなかったので言い伝えはあまり残っていないでしょう。魔道教会も熱心に取り締まっていないと聞きます』
『渇海条約の契約の相手は光竜の王であるエゥバレェナ一族の長になる。条約により、軍務につく光竜以外は渇海から外に出ることはない……また契約でエゥバレェナ一族は軍務に就かないので外界で見かけることはないはず……』
マールトは少し考えに落ちたようだ。
『マールト、出るべき何かがあった……と考えると腑に落ちることはないか?』
アケラは、ソウェがエゥバレェナと遭った事とマールトがシエナに使わされた意味が繋がっているのではないかと暗示した。
『む!? 長ならばエゥバレェナの動きに気づくはず……そしてシエナか……』
『アワシュからシエナの延長線上に何が有る』
『……んぉっ?! サ、サレルマかっ……』
『アイリッカラは何か知っていないのか』
『口を閉ざして何も語らぬ』
『この件を餌に揺さぶってみてはどうか? 光竜についてサレルマに問いただすぞと言えばいい』
『残念ながら自分には取り調べる権がない』
『お父様からリュフタ様に相談してもらいましょうか』
『ふむ』
アケラはしばし考えた後、決断した。
『拙はマールトに信を預けようと思う。マールトと我らの目的は同じ方向性を持っている。ソウェ、ロウェ異存はないか?』
『はい、同じ事を考えていました』
ソウェの返事に、渇海を見つめ、考えに耽っていたロウェが我に返る。
『異存なし』
『また、アファリの家にも全てを打ち明け、助力を乞う。皆胸襟を開いて話せる事になろう』
マールトの戸惑いを感じる。
『すまん、なんのことか皆目見当がつかないのだが……』
『アファリ家に戻ってから相談させてほしいのだ。簡単に言えば、拙が背負うた依頼を
『……手伝うのは
『それで構わぬ』
ロウェが渇海を見飽きるまで景色を見ていた。
アケラは巨木を見上げると、
しかし樹高がけた外れに高く拳大のような実がたわわに実っている。
『あの実は食えぬぞ。決まった魔獣以外食わぬ』
『もし予想通りであるならそうであろうな』
アケラはもしアワシュに行くことがあれば、あの実を使って蝋を作れないか試してみようと心に決めた。
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