第38話

 腕や足、背中にも、全く不可解にも突如として無数の裂傷が生まれ、赤い血が流れているのだ。

 さらにそれと同時に、甲高い耳障りな音が響いてきた。リヴィッドはそれが、彼女の抱える剣が立てている音だと察することができた。

 その剣は、何もしていないはずなのに、そして完成したばかりの美しい出来栄えを誇っていたにも関わらず、既に刃が欠け始めていたのである。

 少女はそれら全てを意に介さぬよう、あるいはそれに気付いても、他にどうしようもないというように真っ直ぐに駆け続けていた。

 リヴィッドが怖気を抱いたのは、彼女の変わらぬ、強い決意に対してでもある。しかしそれ以上に背筋を粟立たせたのは、欠けた刃の破片が生み出す赤い影が、なんらかの形を取り始めているように見えたことだ。

 少女が駆け、向かう大樹の前に、それは現れようとしていた。赤い世界の赤い影から、染み出るように生まれ出でる、やはり赤い色だ。リヴィッドはその不可解さというよりも、そこから感じる強烈な気配に怖気付かされた。

 人影だ、と直感する。

 ぼんやりとした輪郭だが、頑強そうな人の影が、そこに現れ始めているのだ。

 肉体を持っているようには見えない。それは揺らめく影であり、それを作り出すのはなんらかの凄絶な意志や、感情なのではないかと思えた。赤い森に満ちるそうしたものが、人の形となって自分の前に現れようとしているのではないか、と。

 途方もない恐怖だった。リヴィッドは思わず、サヤに警告しようとしたほどである。しかし疲弊さることながら、それ以上の恐怖に、声を出すことができなかった。

 そうするうち、剣が欠けるたび、少女が近付くたび、生まれ出でる人影は周囲と同一でありながら、また異質でもある色味を強くしていき――

 やがてサヤが大樹の根元に辿り着き、そこに刺さる刃の隣へと、自らの作り上げた剣を、交差させるように突き立てようとした。瞬間。

 人影は突進してきた。

 いや、突進というほど生易しいものではない。巨大な矢が放たれたように、あるいは吹き荒れる突風ように、少女を薙ぎ倒さんばかりに貫いたのである。

 そしてその奔流は、少女のみならず、リヴィッドの身体をも貫いていた。

 リヴィッドは恐怖に目を見開かせた。全身がばらばらに引き裂かれるような激痛を感じ、絶叫を上げようとしたが、喉も切り裂かれたかのように、それは声にならなかった。視界は赤く、どこまでも赤く、完全な暗闇のように、全てが輪郭を失っていくのを見た。

 気が狂いそうな赤一色の世界に放り込まれる。何も見えず、何も聞こえず……

 しかしその中で、不意に眼前に広がる光景があった。それは目で見ているのではない。脳が作り出した、記憶の映像のようなものだった。

 ただ、全く見知らぬ記憶だ。誰か別人の記憶が、自分の中に流れ込んできているのではないか。そう思えた。

 映し出されたのは自分――この記憶の、本来の持ち主である者の視界に違いなかった。はっきりとした、一般的な色味を持つ視界だ。見知らぬ村の、見知らぬ家の入り口で、若い男を送り出そうとしている。

 傍らには若い女が同じように男を見つめ、足元には小さな少女がしがみついている。男は多くの剣が詰まった荷箱を馬車へと積み込み、最後には小さな鉄製のお守りを見せて笑い、背を向け、馬車に乗って村の外へと向かい始め……

 次の瞬間に場景は変わっていた。

 先ほど見た若い女が、自分の前で泣き崩れている。自分はそれを必死に慰め、なだめようとしていた。様々な言葉を投げかけ、懸命に、自分の涙を堪えていた。一年分ほど成長したように見える小さな少女は、やはり自分にしがみついている。

 また場景が変わる――

 村にやって来た隊商を見つめていた。その店に並ぶ商材の中、しかし自分は一点だけを見つめていたのだ。いくつもの剣の横にひっそりと、場違いな物がある。小さな鉄のお守りだった。

 また変わる。若い女が、また泣いていた。

 今度は泣き叫び、激昂し、隊商に詰め寄っていた。自分はそれを止めなければならなかった。同じ感情を抱きながら、それでもそれを堪え、女をなだめなければならない。どれほど最悪の想像をさせるものがあったとしても、この小さな村で隊商と事を構えるのは、危険極まりないことなのだ。

 場景が、ぼんやりと赤く染まり始める。

 女は床に臥せっている。鉄のお守りを抱き、苦悶に喘いでいる。外に出れば村の人々が、敵意の篭る目を向けてきた。わかっていたことではある。しかし、彼らは自分の仲間ではなかったのか。例え相手が誰であろうと、村の一員に害意を及ぼしたのではないかと疑えば、団結し合う仲間ではなかったのか。

 視界が赤い。

 村は荒れていた。多くの馬に踏み荒らされた地面に、破壊痕の見える建物、傷付いた村人たち。女はいない。自分の足元には、少女が立っていた。じっと村を見つめ、涙を流してすらいない。なぜだ? 自分はこんなにも悲しいというのに。こんなにも怒り狂っているというのに。少女は何も感じないのか? 足元に、小さな鉄のお守りが落ちている。思えばこれが始まりだった。これが――お前の生み出した、呪いだったということか。

 赤い。全てが赤い。

 何も見えない。何も聞こえない。しかし目の前に少女がいることはわかる。それさえわかれば、他のことなどどうでもよかった。憎き少女。憎き世界。それを破滅させられるのなら。

「お前は、呪いの子だ――」

 ばきんっと激しい音がした。

 リヴィッドは目を開けた。いや、最初から開けていたのだが、まるで塞がれていた視界が開けたように感じたのだ。

 強烈な吐き気が込み上げ、思わずその場に崩れ落ちそうだった。ぼろぼろと涙が頬を伝っているのがわかる。それによって滲んだ世界は、赤いまま。しかしそこは森の中で、赤いながらも物が見えることに、リヴィッドは無性に安堵感を抱いたほどである。

 ただ、目の前の光景は安らぐものなどではなかった。

 少女――サヤが大樹に突き立てようとしていた剣が、真っ二つに折れている。さらにその破片が、地面に落ちるよりも早く二つ、三つと分解させられていくのだ。

 サヤはそれを見るや、すぐに踵を返し、こちらの方向へと駆けてきた。口惜しそうに唇を噛み締めて、また裂傷を付けながらも走り――

「……リヴィ、ッド……!」

 少年の姿を見つけると、信じがたい、そして決してこの場では見てはいけないものを見るような瞳で驚愕したようだった。

 リヴィッド自身がそれに何もできないでいると、彼女はいっそう必死に速度を上げて駆け寄り、呆然とするばかりの手を取ってさらに駆けた。

「サヤ、あれは――」

「今は……戻、る……!」

 喋っている時間もない、ということだろう。事実、リヴィッドの身体はほんの少しの時間そこにいただけのはずなのに、既にいくつもの傷が生まれ、全身を煩わしい痛みが襲っていた。

 ましてサヤは、それ以上に傷だらけだった。

 その姿に、リヴィッドも反抗することなく口を閉じて彼女に従った。ちらりと振り返った大樹、その根元に輝く刃は、少女の血でさらに赤く染まったように思えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る