第9話

 真昼間である。陽光は高く、地表に温かさを授けてくれている。そうした中で、大半の町民たちが抱く目下の悩みといえば、昼食の内容についてという程度だったに違いない。

 妙に張り切って買い出しに向かう主婦や、まだ昼食休憩には早そうなどこぞの店の従業員たちがぞろぞろと出歩いているのを見ながら、女――チーニャは皮肉にそう考えた。

 自分とは全く違う人々だ。彼らは、災害の復興がままならず、苛立ちばかりが募る窮屈な暮らしだと嘆きながら、その実、隊商がやって来た程度で大はしゃぎできるような、その程度の切羽詰り方でしかない。

 自分はそんなものとは一線を画している。逆方向に走っていく人波に逆らっているのは、まさにその証拠ではないか。

 チーニャは半ば本気で、そう思っていた。だからこそ、誰にでもなく叫ぶ――

「隊商がぁ、なんだってのよう……恋人売ってくれんのかあ!」

 すると近くにいた女が一瞬、忌避するような目を向けてくるのが見えた。そして、まるで酒臭さに耐えるように鼻を押さえ、慌てて駆けていく。

「なんだってのよう、まったく……」

 苛立ちにチーニャは呻く。酒臭い?――何を馬鹿な。酔っているのに酒臭くない奴がいるか。

 いっそ隊商で新しい酒でも買うべきか、とも思ったが、その必要がないことには気付くことができた。右手に持った大きな酒瓶には、まだ半分ほど残っている。味?――そんなものは知ったことじゃない。必要なのは、単純に酔うためのアルコールだった。

「こちとら、恋人ひっぱたいてやったのよう。ふふ、ひひひ……ぅぇぇえぅ」

 最後のは吐き気を堪えたらしい。しかしその拍子に立ち止まってしまい、彼女は逆走してくる通行人のひとりにぶつかった。ぎゃあと悲鳴を上げてよろめき、ぺたりと座り込む。

 チーニャは怒り、「あんたもひっぱたいてやろうか!」と叫んだが、ぶつかった相手は既に雑踏の中へと消え、見えなくなっていた。

 ついでに叫んだことで、もはやチーニャ自身もどうでもよくなっていた。

 それよりも、チーニャはふと目の前の地面に、不思議なものがあるのを発見した。

 小さな水溜りである。誰かが掃除でもした後だったのかもしれない。思えばお尻に濡れた感触があるものの、まあそれはどうでもいい。問題はその水溜りに映るものだった。

 見知らぬ女だ。しかし十七歳に違いない。顎ほどまでの茶髪はぼさぼさに跳ね回り、猫っぽい顔を真っ赤にして、勝気そうな大きい瞳も泣き腫らしたように赤く、完全に据わっている。

 赤茶色をした服は地面を転げ回ったかのように茶色の成分が多くなり、ところどころ破れや、ほつれが見て取れた。

 有体に言って、酷い姿だ。それを見て、チーニャは思わず笑い出した。

 しかし同時に水溜まりの中の女もこちらを見て笑ったので、途端に怒り狂う。

「あによぅ、あんた。あたしとやるっての? こっちはもう恋人ひっぱたいてんのよぉ……あんたなんかもう、ぼっこぼこよお! 生意気に酒まで持って……よこしなさいよお!」

 叫び、チーニャは水溜りに腕を突っ込み、水の中の女と格闘し始めたが――

「おい、邪魔だ」

 ふと頭上から声をかけられ、見上げる。そこにいたのは……見知らぬ少年だった。十五歳ほどだろうか。人相は悪いが、その中にもどこか幼さが残っている。だぼっとしたサイズの、土色をした厚手の作業着めいたものを着込み、グローブとブーツで手足を覆っていた。

「……あん? あによぅ、あんた誰」

「誰でもいいだろ。邪魔だ。入れねえからさっさとどけ」

 顎で背後を示され、振り返ると、どうやらそこは何かの店の入り口だったらしい。が、チーニャはそれと少年とを見比べてから、また声を荒げた。

「いきなり来といて、なんなのよう! こっちだって、歩けりゃこんなとこにいないでしょうがぁ! そんくらいわかりなさいよお!」

「何に怒ってんだよ……」

「どいてほしかったらねぇ……肩くらい貸すもんでしょぉ!」

 少年は最初、奇妙にも複雑そうな顔をした。それは嫌悪というより、苦悩に近かったかもしれない。なんらかのトラウマを蘇らせ、肩を貸すことに躊躇い、迷っている顔だ。

 酔っていても、あるいはそれだからこそ、チーニャはそうした変化を過敏に見抜いていた。見抜いたところで何をするわけでもなかったが。

「……めんどくえし、鬱陶しい奴だな」

 いずれにせよ少年は、表情を不愉快で埋め尽くして呻き、それでもよほど店に入らなければならない事情があるのか、素直に肩を貸してチーニャを立ち上がらせた。

 ただ、泥酔した女がそれでしっかりと直立できるはずもなく、むしろ支えに甘えてだらりと脱力したほどである。さらには、してやったりという顔で少年に告げる。

「んじゃあ、このまま家までよろしくぅ」

「ふざけんな、どかすだけだ」

「あぁん? いいわけぇ? あんた、もし送らなかったらまたここに座り込んで、今度は店から出れなくしてやるわよぉ!」

「最低の奴だな、お前……」

 少年が明らかな侮蔑の表情を向けてくるものの、チーニャは意地悪く笑うだけだった。そして少年も存外素直に、チーニャの案内のもと、肩を貸したままで歩き始めた。

「だいたいお前、十七かそこらじゃねえのか? 酒飲んでいいのかよ」

「ぁによう。あんたよりは年上よぅ」

「俺は飲酒制限の基準じゃねえよ」

「別にいいでしょぉ! だいたいねぇ、これが飲まずにやってられっかってんでい!」

 チーニャは一際大きな声を張り上げた。そうしてからぐったりと首を垂らし……「あ、そこの角を右ね」と呻き、少年が従ったところでようやく、続ける。

「こんなちっちゃい町で、やっと見つけた彼氏に振られて……そりゃ、最後にひっぱたいちゃったのはあたしだけどさぁ」

 少年は、お前の恋愛相談を受ける気なんかないという顔をしたようだった。が、チーニャは気にせず、回らぬ舌を必死に回す。

「こんなちっちゃい町で、彼氏に振られたりなんかしたら、あたしはもうお終いよぉ! 飲まずにいられんないでしょぉがぁ!」

「ンな大袈裟なことかよ」

「ぁにぉ! あんたねぇ、こんなちっちゃい町で彼氏に振られたりなんかしたらねぇ……」

 何回言うんだよ、という顔をされたが、チーニャは空と地面を交互に睨むことしかしていなかったので、気付かなかった。そしてそのどちらかに向かって怒鳴る。

「そんなの、そりゃあもう大事件なのよう! こんなの、すぐ広まっちゃうわ。そんで明日には新聞にも載っちゃって、あたしはもう一生彼氏なんかできなくて、こんなちっちゃい町なのに一生独身なのよう!」

 ほとんど泣き出すような叫び声だった。角を曲がり、大通りから外れたことで通行人は極端に少なくなっていたが、それでも少年には、前から歩いてきていた町民が嫌そうに途中で急に道を変えるのが見えていた。

 一方でチーニャは見えていなかったのか、無視してへらへらと笑い出すと、

「あたしは終~わ~り~♪ 一生ど~く~し~ん♪」

「いきなり歌い出すんじゃねえよ」

「周りの人から白い目で見られ~て~♪ あいつ彼氏に振られたんだって言われつ~づ~け~りゅ~♪」

 テンポも抑揚もデタラメだったが、当然そんなことは気にしない。少年が片手で耳を塞ぐのも全く構わず、ただむせび泣くように声を上げる。

「か~れし~♪ か~れし~♪ か~れし~がい~ない~と死~んじゃ~うぞ~♪」

「うっせえ黙れ歌うな」

 少年の肩に回しているのとは反対の腕を、ぶんぶんと上下に振り回しながら、涙目でヤケクソな笑顔を作る女。その悲痛な歌声は、無闇に住宅街に響き――

 そのおかげで、当然だが注目を集めることにはなっていた。

 先ほど道を変えたはずの男が、ふたりが通り過ぎた後でこっそりと顔を出す。

 ふたりは当然、気付いていない――少年に寄りかかり、半ば運ばれていくような女の背中に悪辣な笑みが投げかけられていたとしても、気付くはずがなかった。

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