第25話

 周囲の女がざわめき、スレインとリヴィッドも流石に緊迫して息を呑む中、男はあと何歩かという距離で止まると、猫背というよりは飛びかかろうとする体勢でしゃくり上げてくる。

「てめえだな、おい。俺の女に手ぇ出しやがって……どうなるかわかってんのか!」

「いや……僕にはなんのことか」

 戸惑いながらスレインが答える。が、男はより激昂の度合いを強くした。

「しらばってくれたってわかってんだ! 昨日、俺の女の家に上がりこんでたみたいじゃねえか。あァ!?」

 言われて、スレインはようやく何かに思い当たったらしい。弁解するために両手を小さく挙げて、苦笑する。

「ああ……いや、あれはただ足が痛んで……」

「っせえ! こっちは言い訳なんざ聞く気ねえんだよ!」

 怒鳴り、男は砂袋を見せ付けるように、自分の屈強な腕に叩き付けてみせた。ニヤニヤと、怒りの中に嘲りを含んで笑う。

「どっかの隊商だかの馬鹿も、俺の女に手ぇ出しやがって、こいつで大人しくさせてやったんだ。てめえも覚悟できてんだろうな、あァ?」

(まさか……)

 その展開に、リヴィッドは思い当たる節があった。が、それとは無関係に事態は進んでいく。

「思い知らせてやらァ!」

 男が砂袋を振り被り、一気に襲い掛かったきたのだ。

 しかしそれと同時、

「こっちだ!」

 喫驚する間にリヴィッドは、ぐいっと後ろに腕を引かれた。鼻先を――スレインを狙った勢いだろうが――、薄い黄土色をした砂袋が凄まじい速度で掠めていく。

 ただ、次の瞬間には数歩分ほど遠ざかっていた。リヴィッドは腕を引かれる勢いに任せて振り返り、駆け出した。隣にいたのはスレインである。どうやら彼は迷うことなく、一瞬のうちに逃走という選択肢を取り、リヴィッドも一緒に助けたようだった。

「待ちやがれ! ぶっ殺してやる!」

「こっち!」

 怒号を上げながら追ってくる男をちらりと振り返り、スレインはすぐさま近くの民家の陰へ入り込むように曲がった。さらに足を止めることなく、続く民家をまた曲がる。

 石塊を飛び越えて、入り組んだ細道がない代わりに民家を利用し、時に走るのではなく隠れ潜むこともしながら、スレインは的確に男の死角を奪うように逃げていた。リヴィッドもそれに続きながら、その手腕に感服させられたほどである。

 そうして執念深い男の怒声が小さくなり、とうとう完全に聞こえなくなったのは、単純に距離を離したのではなく、見つけ出すことを諦めたためのようだった。なにしろ最後に聞こえたのは男の「くそッ!」という毒づく声と、ゆっくりと遠ざかっていく足音だったのだから。

「はあ……どうにか逃げられたみたいだね」

 安全を確認したところで建物――ここは民家ではなく、研究所跡の裏手らしい――の陰から這い出して、ふたりは念のためにと辺りを確認した。

 元々商店に乏しく、娯楽施設などない町で通行人は多くのないだが、それでも何かの用で歩いていた住民が訝るような目を向けてくる。先ほどの砂袋を持った柄の悪い男と合わせて、察するものがあったのかもしれない。

 しかし当の男は、やはりいなくなっているようだった。

「なんていうか……すごいすね。手慣れてるというか」

 安堵したところでリヴィッドは、賞賛ともそうでないとも取れる声を向けた。スレインはどちらに取ったのか。ともかく苦笑して肩をすくめてくる。

「ああいう手合いに追われるのは、まあ慣れてるからね。因縁も似たようなものだし」

「……なるほど」

 美男なりの苦労なのだろうと、リヴィッドは納得した。聞く人が聞けばそれにも反感を抱くかもしれないし、リヴィッドもその気持ちは理解できそうだったが、今は考えても仕方ない。

 考えるべきは他にあった。というより懸念だろうか。リヴィッドはその一つを口にした。

「ところであれ、馬車の方に行ったりしねんすか。嫌がらせというか」

「大丈夫。向こうには女の子たちがいたし、喧嘩ならともかく、陰湿なことはやり辛いよ。手荒なことをすれば馬が暴れて酷いことになるのは、あの手合いにもわかるだろうし」

 スレインはすぐさま、そう答えてきた。計算尽くのようでもあるが、慣れているというのなら、実際にそれを見越した逃走だったのかもしれない。

 ただ、リヴィッドは次なる懸念を口にした。それを吐き出すのは不愉快な気持ちだったが。

「……悪評を吹聴されたりしねえんすか? 名前に傷が付くし、上の方まで問題がいくとか」

「そういうことは、されるかもしれないけどね」

 今度は存外あっさりと認めてきた。ただ、やはり苦笑のように顔を渋らせながらも、どこか気楽な様子で続けてくる。

「この町での悪評はそれほど他に回るわけじゃないし、町の中でだって気にする人は多くないと思うよ。女の子たちを見る限り、むしろ……いや、それはいいか」

 望んでいる人の方が多い、とでも言いそうな顔だったが、かぶりを振って言葉を変えた。

「上の方だって気にしないさ。そもそも、そこまで話が届くとも思えないしね」

「……そりゃ、まあ」

「まあ、こういう誤解も付き物だよ。特に僕の場合、運悪く傷が痛み出した時なんか、ね。治療をしてもらうだけでも周りを警戒しなくちゃいけない。今回はちょっと、それを怠ったかな」

 冗談めかした調子で軽く笑うスレイン。リヴィッドはその話を聞いて――しかしだからこそ、なおさら頑なな決意が湧いてくるのを自覚した。

 自分が首を突っ込む必要などないと、無視することもできたはずだが。

「やっぱり、誤解を解きに行くべきだ」

 強い調子で告げる。するとスレインは驚いたように目を見開かせた。

「まさか。そんなことする必要ないって」

「面倒なことになるんだ、きっと。それからじゃ遅い。逃げるのに慣れてるっていっても、囲まれたら終わりだ」

 あくまでも食い下がると、スレインはしばし黙してから……根負けするように肩をすくめた。

「キミって、もっと淡白で擦れてるかと思ったけど、意外と情に厚いね」

「別に……俺はただ、こういう誤解が嫌なだけだ」

「それが、情に厚いって言うんだよ」

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