第6話

 不可解なこと――というべきか。少なくともリヴィッドが不可解に思う出来事が起きたのは、アンノトスの町を発ってからのことだった。

 もっと正しく言うならば、出来事が起きたというべきでもないだろう。起きていないことが、リヴィッドにとって不可解だったのである。

 つまりは名残惜しそうな住民に見送られながらアンノトスの町を発ち、南西へと向かう街道を進み始めた夜のこと。ルルナが、いつまで経っても姿を見せなかったのだ。

 さらには二日目も同じく彼女は現れず、リヴィッドは商人たちの煩わしい軽口を受けながら、夜を耐えなければならなかった。

 ルルナが現れない理由を想像することは難しくない。例えば座長から禁止令が出されたとか、雑用に追われて疲弊しているとか、あるいは単純に興味を失ったという可能性も十分に考えられるだろう。

 しかしいずれにしても、リヴィッドはそれらの推測を確かめるために旅芸人一座の馬車まで足を運ぼうとはしなかった。そんなことをすれば、ほんの十歳ほどである年下の少女に、自ら主導権を明け渡すことになるような気がしてしまったのだ。

 なんの主導権を争っているというのかは、リヴィッド自身にもわからなかったが、少なくとも自分から少女に媚びるような真似をするのは許されないと強く感じていた。それは彼女を失望させてしまうだろう、と。

 ……そう考えているため、リヴィッドが馬車を降り、夜の街道を遡って隊商の馬車群を通り過ぎ、最後尾に加わっている一座の馬車の方へ歩いていったのは、単純に商人の軽口から逃れ、気を紛らわすため夜風に吹かれていただけに過ぎない――少なくともリヴィッド自身はそう信じていた。

 街道は土が敷かれただけの簡単なものであり、幅でいえば隊商の率いる二頭立ての幌馬車がなんとかすれ違えるかどうかという程度で、路面の凹凸が経年を感じさせる。

 道の北側には、ゆっくりとした平面の草原が広がっていた。雲のまばらな星空の下、かなり遠方まで見通すことができる。しかし反対に、南側はまばらに木々が生え、さらにそれが次第に林、そして森へと変わっていくようだった。

 暗闇の中でいっそう黒々と沈むおぞましい海のように、遠巻きにそびえる姿は、アンノトスの町で見たよりもさらにひどく『赤い森』という災害を強調していた。

 一座は幌馬車が二台あり、一台には興行用の様々な、いわば商売道具、そしてもう一台に十近い団員が詰め込まれているらしい。

 そこへ近付くと、当然だが彼女らも野営中であるため灯りが見えた。馬車――隊商も含めた全ての馬車だが――は北側に寄せられ、しかし野営といってもテントを張っているわけではなく、荷台に集まっているようだ。

 まだ馬車一台分ほどの距離があるものの、耳を澄ますと微かな風に乗って、途切れ途切れだが話し声が聞こえてくる。若いような、そうでもないような、男の声だ。

「……それで、どうだったんだ?」

「ダメだな。思ったより……だった。……は上手くいったのか?」

「こっちもだよ。もっと……かと思ったんだけど」

 最後の声には聞き覚えがあった。ルルナだ。ただしいつもの纏わり付いてくる高音ではなく、どこか失望したような、投げやりな声音になっている。

 リヴィッドはそうした声の調子にどこか不穏な気配を感じ取り、すぐにこの場を離れるべきかとも思ったのだが――同時にもう少し聞き入り、なんらかの秘密裏の事情を探りたいという気持ちが湧いてくるのを止められなかった。

 そのためリヴィッドが恐る恐る、足音を忍ばせながらさらに近付いていくと、

「まったく……お前がもうちょっとマシな成果を出してりゃなあ?」

「だから、あれが使えなかったのはわたしのせいじゃないって言ってるじゃん!」

 荒げられたのは他でもなく、ルルナのものだった。彼女は苛立ちの音声で続ける。

「あんなの使えないって最初からわかってたでしょ? ただわたしが貧乏くじ引かされただけだよ! それに成果なら一応――」

 と、まるで何かに制止させられたように、ぴたりと途切れる。そしてその後、耳を澄ますと不満そうな、微かな声が風に乗ってきた。

「……はい。ごめんなさい」

 不服を押さえ込み、搾り出す声だった。リヴィッドにも覚えがあるものだ。最近ではそれを発することにすら反抗するようになっていたが。

 いずれにせよ、ルルナは団員からなんらかの責任を押し付けられ、理不尽に叱り付けられているに違いなかった。さらに一度は反論したことで、余計に立場を悪くしたのかもしれない。そういうものだ――とリヴィッドは自らの経験から悟っていた。

 だからこそ、他人事ながらそれに激しい苛立ちを覚えた。いっそ自分がそこへ割り込み、ルルナを助けるべきだろうか。同じ経験を持つ自分だからこそ、そうしてやるべきではないか。

 リヴィッドはそう考え、一座の馬車へ取り付こうと駆け――寄ろうとしたのだが。

「誰だ! そこで何してやがる!」

(やばい、見つかった!)

 手前の物陰から顔を出した途端。横手からランプの光を向けられ、リヴィッドは咄嗟に踵を返して逃げ出した。どうやら一座の馬車の脇には、見張りの男が待機していたらしい。出向くところではあったものの、自ら押し入って混乱させるのと、捕まって放り込まれるのとではワケが違う。

 幸いにも見張りはほとんど追ってくることがなかったため、リヴィッドはすぐに逃げ延びることができた。ただ、そうして商材の詰まった無人の馬車に隠れ、安堵の息をついたところで、今度は後悔が襲ってきた。何を逃げる必要があったのか。ただ、同行する一座の様子を見に来た隊員というだけではないか。なにより――

 ワケが違うといっても、ルルナを助けるためなら敢行するべきだったのではないか。

 しかし直後には、例えば逆の立場でルルナが自分を助けに来たとしても、それは一時的なものでしかなく、下手をすればその後に悪化する可能性まであるだろう、という考えも湧いてきた。中途半端な手助けは、さほどの助けにならないはずだ。

 ……もっともリヴィッドは、それがただの言い訳でしかないことも自覚していたが、そう思う他になかった。

 結局、リヴィッドは一座のもとへ行くことはなかったし、後ろめたさゆえに再びそうしようとも思えなかった。ルルナもやはり少年に顔を見せることなく、数日の末に隊商は、北と西へ伸びる街道の分かれ道に辿り着いた。

 北へ向かう一座とは、ここで別れることになっているらしい。

 礼儀として隊商もそこで一度は足を止め、一座と挨拶を交わし、互いの旅路の幸運を祈り合うことになった。それぞれの人員が列となって対峙し、代表として隊長が座長といくらかの言葉を交換する――

 そうした見送りの中。リヴィッドは、そこに久しくルルナの顔を見つけていた。そしてどうするべきかしばし悩んでいたのだが……結局は声をかけることにした。

「よう、ルルナ」

「……あー、久しぶり」

 歩み寄り、できる限り自然に呼びかけると、しかし彼女は一拍の間を置いてから、今まで見ていたような子供らしい笑顔ではなく、どこか眠たげな、憮然とした目で一瞥してきた。

 リヴィッドはそうした様子に困惑し、どう言葉を続けていいかわからなくなった。ルルナの方も一応は意識を向けているものの何か言ってくる様子はなく、リヴィッドが渋々と言葉を吐く。

「えぇと……まあ、元気でやれよ」

「あぁ、まあ、うん。そっちもね」

 彼女の声音は社交辞令にも成り得ない、素っ気無く、淡白なものだった。まして最初の一瞥以外は目を合わせようとしてこないどころか、疲弊し、発声すら面倒であるかのようだ。

 それはやはり、理不尽な弾圧に辟易しているせいかもしれない――リヴィッドはそう考え、同情を抱き、そこで会話を終えることにした。すると座長らしき男が出発を知らせる号令を発し、ルルナも含めて団員たちはのそのそと馬車へ乗り込んでいった。

 しかしその時、ルルナはふと振り返くとリヴィッドに向かい、「そういえば」と声を上げた。

「こっちは返してあげる。いらないし」

 と言って何かを放ってくる。リヴィッドが受け止め、見やると――

 それは紺色をした縦長の、ネックレスの箱だった。

「な……!?」

 驚愕と混乱の中、リヴィッドは慌てて顔を上げた。

 しかし一座の馬車は既に北へ向かって走り出しており、小さくなっていく荷台の中に、これみよがしに星型のネックレスをかけるルルナの、嘲るような微笑が見えた。

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