第12話

 チーニャの名前は、彼女を家まで送り届ける最中に聞いていた。流石に今は酔い潰れておらず、紫掛かった麻の服に白いロングスカートという服装も、以前のように汚れてはいない。

 ただし左頬にガーゼを当てており、目の下には僅かな痣が見て取れた。やや俯き加減で目を逸らし、バツが悪そうというか、良心の呵責に喘ぐような顔をしている。

 それらを一通り眺めていると、黒服の男はチーニャの斜め前に立つようにして振り返った。残る面々はリヴィッドの背後に回り込んでくる。

 リヴィッドはこれから何をされるのか、おおむねを予感して歯噛みした。しかしそれでも一応、抵抗する心地で問いかける。

「どういうことだ? 俺には、こんなところに呼び出される覚えなんてねえぞ」

「しらばっくれてんじゃねえぞ!」

 突如として爆発したように、黒服の男の大音声が狭い路地に響き渡った。反響して、鼓膜が痛むような気がするほどの怒声である。男はそれで一度発奮したおかげか、続く声は静かなものになったが、怒りの度合いはむしろ増しているようだった。

「てめえが俺の女に何したか、忘れたってのか? それともなんだ、酒を飲んでたから覚えてねえとでも言えば許されると思ってんのか?」

「……どういうことだ?」

 目を細め、その場にいる他の全員――チーニャも含めた全員のつもりで、改めて問いかける。もっとも既に大半を察していたし、黒服の男が怒りを含んで答えてきた話は、ほとんどそうした予想の通りだった。

 端的に言えば、リヴィッドがチーニャを襲ったのだという。

 リヴィッドはそれを聞かされてすぐさま否定したが、聞き入れられることはなかった。証拠として、目撃者が多数いるというのだ。背後にいる男たちも、その目撃者らしい。

 しかし当然と言うべきか否か――聞くところ、彼らの証言はほとんどがデタラメなものだった。最も事実と近い証言ですら、リヴィッドが嫌がるチーニャを無理矢理に引きずり、自宅へ案内させていたというものである。

 そしてそれを始まりに、路上で既に身体をまさぐっていたとか、一度はその場で押し倒そうとしたとか――服の汚れはこのためだという関連付けまでされているらしい――、服が濡れていたのはナイフで脅された恐怖による失禁だとか、不可解なほど様々な証言が集まっているようだった。

 さらに酷いものになると、家の中からその時の声や音を聞いたとか、ドアを叩くことで止めさせたという者、逃げるリヴィッドと一度は掴み合いをしたという者までいるらしい。

 リヴィッドにしてみれば、馬鹿馬鹿しいと思わざるを得なかった。しかし黒服の男――ロッグスというらしい――がそれらを鵜呑みにしたのは、そうした証言がまるで口裏を合わせてストーリーを作り出したかのように矛盾なく順序立てられていただけでなく、さらに決定的なひとりの証言があったためだった。

 それこそが、チーニャである。

 リヴィッドはその事実に驚かされた。彼女の顔にある、明らかにロッグスの暴力によって付けられたのだろう傷は、無責任な者たちによる偽の証言の誤解を解くことができなかったためだと思っていたのだが――彼女は自ら、それらの嘘を肯定していたのだ。

「待てよ、おい。俺は店の前でてめえが座り込んでたのを、どかしただけだろうが!」

 チーニャに向かって声を上げる。が、彼女は目を逸らしたまま、首を横に振ってきた。

「知らないわよ、そんなの。だいたい……だったら、なんで私の家まで来たのよ」

「何言ってやがる。それはお前が脅してきたから、わざわざ――」

「そんなはずないでしょ!」

 チーニャは不意に、激昂するように声を荒げた。やはりリヴィッドの方は向かず、俯いたままだが明らかに怒り――そして焦りを含んだ顔で。

「私はあんたに襲われた被害者なのよ! あんたの話なんか聞いてられないわ! ロッグス、早くやっちゃってよ。全部あいつが悪いのよ、私はただの被害者なの! だから、もう一回やり直してくれるでしょ? 叩いちゃったことだって謝ったんだし、ね? ね?」

 言葉の後半は男にすがりつき、引きつり、懇願する笑みを浮かべながら捲くし立てる。

(こいつ……俺を売った、ってことか?)

 つまり何者かの嘘によって破局を決定的なものにされそうになったため、自分を被害者にすることで、そこから逃れようとしたのだろう。怪我はそれとは別の報復か、あるいは『けじめ』のようなものか。

 こうなっては、もはや誤解を解くことは全く不可能だった。真実かどうかは関係ない。裁決を下す者――つまりこの場ではロッグスが、どちらを信じるかでしかない。

 そもそもそれは、最初から決まっていたことではあるが。

「人の女に手ぇ出す奴なんて、最低だよなぁ?」

「こういうガキは、しっかり教育してやらねえとな!」

 後ろから、ニヤニヤした声で言いながら、痩躯の男たちが近付いてくる。

 さらに正面からは、恋人の女を乱暴に押し退けたロッグスが、手首の鎖を握った拳へと巻き付けながら迫ってきていた。

「逃げられると思うなよ。ぶっ殺してやる」

「……ざけんな、クソが」

 逃げなくてはならない――言い返しながら、リヴィッドはそう考えた。

 心臓がばくばくと飛び跳ね、恐怖による興奮で汗が噴き出ているのがわかる。眼球は揺れて、頭の中が白く、冷たくなっていく。

 すぐに走り出さなかったのは、足が震えていたからだ。激しい口論を繰り広げることも、乱暴な衝動に駆られることも少なくなかったが、実際に殴り合う経験などほとんどなかったことに、リヴィッドはいまさらながら気付かされていた。

 逃げなくてはならない。わざとゆっくり歩み寄ってくるロッグスに、リヴィッドは何度もそう決意して……やがてとうとう、弾けるようにそれを実行に移した。

 意味のない言葉を叫びながら、踵を返す――同時に。

 リヴィッドは横っ面に硬く、凸凹とした、例えば鎖のようなものが叩き付けられたような衝撃を覚えた。そして後には悪臭漂う石造りの地面と、何度も踏み付けられる激痛を。

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