第18話
「なんだ、これ……?」
それに気付いた時、リヴィッドは思わず呟いていた。
信じがたい思いに喉が震え、目が見開かれてしまう。そしてそうするほどに、信じがたい光景が目に映るのだ。
陰鬱とした漆黒に染まっていたはずの森――しかしそこはいつの間にか、不可解なことに、赤い色を帯び始めていたのである。
最初は気のせいだと思ったが、混乱しながら進んでいくたび、どこからともない赤い光によって、森の姿がどんどんと浮かび上がっていく。
一歩ごとに、その色味は強くなり……やがてそうした奇怪な光景の中に、森の木々だけではない、廃墟の姿が入り込んできた。
元々は民家だったと思しき石や煉瓦の残骸がそこかしこに立っているのだ。それらは全て切り刻まれたような鋭利な断面を見せ、刃の根が絡み付いている。
もちろん、全ては赤い。見る者を不安にさせる赤色だ。
と、その時――リヴィッドは不意に、それがどこからか照らされているのではなく、全てのものが自らそれを発しているのだと気付いた。
加えるなら、発光しているというわけでもない。
草も木も、石も煉瓦も、地面も、空までもいつの間にか真っ赤に染まっていたが、夕陽の輝きを持っているのではない。
言うなれば――闇までも赤いのだ。
リヴィッドは言うまでもなく、当惑させられた。こんな現象は見たことがない。どこの世界に赤い闇があるというのか。
さらに見下ろせば、自分の身体もぼんやりと赤く染まっている。それはどこまでも現実離れした恐ろしい光景であり、まるで……
まるで、自分が血塗れになっているかのようだった。
いや、自分だけではない。森の中全てがそうであるように思えた。そしてそれと同時、むせ返るほどの異様な臭いが鼻をつく。鉄のようでもある、腐敗した、赤い悪臭だ。
周囲には、砂粒よりは大きく、砂利よりは小さい、奇妙な粉埃が舞っている。風もないのにゆっくりと渦巻くそれは、悪臭の根源のように思え、おぞましい妄想をかきたてられた。例えば、そう……骨の砕片ではないか、と。
森は、その赤――死や破滅によって支配され、埋め尽くされているのだ。リヴィッドは初めてそれに気が付き、愕然と戦慄した。
「まさか……」
そんなはずはないと、やはり矛盾した言葉が口を付く。しかしその声が酷く震えていることは自覚せざるを得なかった。
瞬きも忘れ、息が上がり、呼吸のリズムすらままならなくなっていく。頭の中には混乱が跋扈し、計り知れない恐怖が全身を粟立たせ、何一つとしてまともな思考や、単語の一つすら掴み出すことができなくなったほどである。
思い出されるのは町で見た、恐怖に狂う男の姿だ。
ただ、リヴィッドはそんな中でも、奥へ向かって歩き進むことだけは止めなかった。
そうすることができたのは――そしてあの男と同じように狂い、悶えることがなかったのは、ひょっとすれば、元より狂っていたからなのかもしれない。
最初から、自分も破滅するつもりなのだ。興味本位で、漫然と足を踏み入れたわけではない。その狂った決意が、ある種の正気を保たせたというのは、皮肉としか思えなかった。
しかしいずれにせよ、それは重大なことだったに違いない。そのおかげでリヴィッドはさらに奥、物見遊山の者たちでは決して足を踏み入れられないだろう領域で一つ、気付くことができた。
音だ。音が聞こえてくるのだ。
森の奥地から微かに、何か硬いものを叩く音が響いていた。そしてリヴィッドは不気味で、恐ろしいはずのそうした音の正体を、しかし確かめたくて仕方がなかった。
この不気味な『赤い森』。そしてその奥から響く音。そうした異常さが、自分の願いを叶えられる証拠だと思えたのかもしれない。恐怖に陥りながら、しかし恐怖するが故に、ふらふらと音の方へ足を踏み出してしまうのだ。
やがて……目の前から木々が減じ、視界が開けていった。
廃墟らしい残骸も数を減らしているが、それはまともな形を残したものが減っているというだけに過ぎない。地面にはそれこそ刃の根を覆い隠さんばかりに、細切れになった石や煉瓦の砕片が散らばっていた。
音は一際大きくなっている。そして辿り着いたのは、そうした廃墟の中央だろう――
見つけたのは、白だった。
おぞましい赤い世界の中で、唯一異質な色があったのだ。
それは最初、光明のように思えた。死や破滅の満ちる世界に空いた、脱出口ではないか、と。
リヴィッドは思わず胸を高鳴らせ、一種の安堵を抱いていた。本能的に、すがるように早足で駆け寄っていったほどである。
ただ、それは当然だが、脱出口などではなかった。
近付いてようやく、その白い色が手足を持っていることに気付いた。肩ほどまでの白い髪もある。黒い目は下を向き、薄いピンク色をした唇が妙に映えている。
着込んでいるのは白い作務衣だろうか。足には妙に無骨そうな靴を履いているが、それはよく見れば茶色っぽい、なめし皮の靴底を、無理矢理に鉄板で補強しているもののようだ。しかし身体はかなりの小柄で、年の頃は十を超えたという程度に思える――
それは、ひとりの少女だった。
赤い世界で唯一、白い肌を持った、白い少女だったのである。
彼女は血塗れの廃墟の中、そこだけはハッキリと形を残し、機能しているらしい巨大な炉の前で、散らばる砕片を上手く組み合わせて作った小さな椅子に座っていた。
さらにはどこからそんな腕力が生まれるのか、巨大な鎚を片手で何度も振り下ろし、鉄を打っているようだった。
まるで――なんらかの武器を作ろうとしているかのように。
「…………」
リヴィッドは近付きすぎない程度に歩み寄りながら、そこに声をかけるべきか、あるいはどう声をかけるべきか迷った。
理解できないことが多すぎる。この森のことも、廃墟のことも、ましてそんな場所で少女がひとり、巨大な鎚を振るっているなどと。
頭の中は処理しきれない混乱で埋め尽くされ、リヴィッドはとうとう呆然と立ち尽くした。音の正体は彼女が鉄を打つものだったに違いない。事実、今もまだ音は続いている。
すぐに逃げ出すことも考えた。こんな得体の知れない、理解の及ばない場所に来るべきではなかった、と。しかしそうするだけの勇気もなく、その場に釘付けにされて……
「……?」
やがて、何かに気付いたのは少女の方だった。
というより、リヴィッドの存在に気が付いたのだろう。彼女は鎚を振り下ろす手を止めないまま顔を上げると、リヴィッドの姿を見つけて驚き、慌て始めた。
鎚を振るう腕の辺りで何かごそごそと弄ったかと思うと、ようやく手を止めて立ち上がり――しかしそこからどうしていいかわからず困窮したように、きょろきょろと辺りを見回したり、不恰好に身構えたりしてみせた。
リヴィッドはそんな少女としばし向かい合ってから、かなり遅れて、彼女が突然の来訪者に対して自分と同じく、しかし全く違う方向で驚き、混乱しているのだと気付いた。
だからこそリヴィッドは逃げることも、なんらかの抵抗をすることもなく……ようやく、恐る恐るだが声を発する。
「お前は……誰だ? 何者だ?」
「……!」
問われると、少女はまた慌てた様子だった。口をぱくぱくと動かしてから、けれど何も喋らず、困り果てる。そしてしばらくして、何か閃いたのか近くにあった鉄の棒を持ってくると、少し移動して砕片のない地面を見つけ、そこを引っかき始めた。
何かと思えば文字を書いているらしい――『サヤ』
どうやらそれが、少女の名前のようだった。
「ひょっとして、喋れないのか?」
そう聞くと、彼女――サヤは痛いところを突かれたような顔をした。それを強がるように変えて首を横に振ると、必死な様子で口をぱくぱくと動かし……微かに息遣いが聞こえてくる。
リヴィッドが恐る恐る近付いていくと、その息遣いがふと、辛うじて声になった。
「しゃべ……れ、る……」
「……喋れる、のか」
訝りながらもそう反応すると、サヤは一度安心した様子で胸を撫で下ろしてから、嬉しそうにうんうんと頷き、得意げな顔になった。
「……俺は、リヴィッドだ」
名乗りを返しながら、リヴィッドはその無垢な雰囲気に、酷く拍子抜けするのを感じていた。不可解で、不気味な森は相変わらず自分たちを取り囲んでいる。しかし彼女の周りだけは、奇妙にもそれが薄らいでいるような気がしたのだ。
リヴィッドはそれにもますます当惑させられながら、改めて尋ねた。
「お前は何者なんだ? ここで何をしてる? ここは一体……なんなんだ?」
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