第21話

 森を抜けても周囲が真っ暗な夜のままだったのは、幸運か否か。

 リヴィッドは苦悩の中で眠りにつこうとしたが、恐るべき森の惨状と少女の言葉が頭から離れず、眠れぬ夜を過ごさなければならなかった。そして夜が明けると……

 しかしリヴィッドの苦悩を知らない世界は、いつもと変わらぬ日々を訪れさせた。

 やけに眩しい幌馬車の荷台から降りて、雲の晴れた青空から降り注ぐ朝陽を浴びると、昨夜のことが夢だったようにも感じられる。いや、夢であってほしいと願ったのか。

 ブリンクノアの町と違って屋台の建て直し作業など不要だが、逆に赤い森と隣接するチャネルベースだからこそ、馬車を含めた点検作業は慎重になる。

「おい、わかってんだろうな? うっかり刃の根でも踏んでたら大惨事だぞ!」

「…………」

 リヴィッドはそうした作業を割り当てられていたが――持ち場につき、手癖のように作業をこなす間も、頭の中は雑然と、あるいは漠然としていた。

 何を考えているのか、自分でもよくわからない。思い浮かんだ一つの言葉を掴み取ろうとすると、それは触れる前に消えてしまうし、次の言葉は見つからなかった。ぐるぐると回り、頭だけが竜巻にでも放り込まれれば、似たような感覚に陥るのかもしれない。

「いつまで整備やってんだ! さっさと終わらせて店の準備に入れ!」

「…………」

 自分の感情すらも掴めなかった。自分の中に渦巻くものがなんなのか。昨夜抱いた自己嫌悪や恐怖もあるだろう。一言で締めくくるには不安感とでも言えばいいかもしれないが、決してそれだけに留まらない、昨夜ですら抱いた自覚のない感情が全身を支配しているのだ。

「てめえ、今日は整備班の専任じゃねえんだぞ!」

「…………」

 狭苦しかったはずの馬車は、内外問わず妙に広く思え、こじんまりとしているはずだった町が巨大化し、ただでさえ大きいと感じていた隊員たちが、さらに巨人のように感じられた。

 それは、サヤの途方もない、凄絶な話を聞かされたためかもしれない。そう考えてしまう――自分が矮小であると同時に、世界が巨大なものであることを思い知らされたのではないか。

「聞いてんのか、おい!?」

 そのせいで、リヴィッドは呆け続けていた。

 隊員の誰かが口汚く怒鳴り散らしてくるのに対しても、それを受け止め、反抗的な思いを抱くだけの余裕がなかったのである。

 返事をすることもままならなかった。眩暈を覚え、内臓がせり上がっているような気持ち悪さに堪えながら、ただ黙々と作業をこなすだけになる。

 馬車に修復の必要な箇所がないことを確かめると、言われた通りに次は店の準備へ向かった。前日の売り上げから商材の配置換えを行うのだと、隊員たちが怒鳴っていたが。

「…………」

 リヴィッドが、その隊員たちの横を通り過ぎていく時、彼らは無言になっていた。そして何に気付くこともなく淡々と、指示された通りの入れ換えを始める少年の背中を訝しく見つめて――なぜかこそこそとその場を離れ、馬車の裏手へ隠れたようだった。

 ただ、声だけが聞こえてくる。

「おい! てめえがやりすぎたせいじゃねえのか?」

「なっ、馬鹿言うな! てめえが昨日、散々いびったせいだろうが!」

「お、俺はちゃんと最後にはフォローしてただろ!」

「あんな不気味な顔じゃわかんねえよ! 殺意の笑みだろ、あれは!」

「あの満面の笑みがわかんねえわけねえだろ! だいたいてめえ、昨日は俺の分の酒まで飲みやがって!」

「それは今、関係ねえだろ! そんならお前だってだな――」

「……?」

 最後に疑問を浮かべたのは、リヴィッドだった。

 ふと――何か全く別のものに囁かれたように顔を上げる。

 リヴィッドは荷台の中にいたため、当然だが隊員たちの姿は見えなかった。しかし声は、耳を澄ますまでもなくどこからでも聞こえてくる。

「おい、在庫数が合わねえぞ! どうなってやがんだ!」

「てめえが数え間違えてるだけだろ、やり直せ!」

「スパナがねえじゃねえか! 車輪の補修っつったら何使うかわかんだろうが!」

「っせえ! こっちだって忙しいんだよ!」

 それはどれもが、怒鳴り声だった。誰かが誰かを貶す声。そして貶し返す声。

 リヴィッドは荷台から少し、顔を覗かせてみた。そこにはやはり、怒号を飛ばし合いながら駆け回る隊員たちの姿が見えた。もっとも見たところで彼らが案の定、見慣れた怒り顔をしていることしかわからなかったが――

 いや、それだけではなかった。

 リヴィッドは掴みどころを失った、渦巻く呆然とした思考の中で彼らの姿を見つめ、ふと気付く。当たり前かもしれないことだが、今、気付いたのだ。

 彼らは何も、常に怒り顔をしているわけではない。怒号を飛ばし、罵り合いながらも、己の作業に戻った時、その顔を少しだけ変化させていた。

 笑顔に、ではない。愛想笑いでも、ましてや満面の笑みなどでもない。しかし怒りではない。それは真っ直ぐに前を見据える、真剣な表情だった。

 リヴィッドはその瞳に覚えがあった――森で見た、少女の瞳だ。

 顔の作りも、瞳自体も全く違う。しかしそこに灯るものは、間違いなく同質だった。

「…………」

 何かの考えが浮かんだわけではない。頭の中は先ほどまでと同じか、それ以上に渦巻いている。ぐるぐると、暴風が吹き荒れている。しかし……

「お、おい、えぇと……ガキ!」

 その時、ふと隊員のひとり――先ほど怒鳴ってきた癖毛の商人、タングスがまた声をかけてきた。殺意的な”満面の笑み”を浮かべて。

「てめえも色々あるだろうが……今は店の準備を急ぐのが隊員ってもんだろ!」

 それだけ言うと、そそくさと引き返して馬車の裏へ消えていく。そこでまた別の隊員と、今のは違うんじゃないかだとか、あれでいいだろだとか言い争っているようだったが。

「ああ……」

 だいぶ遅れて微かな返事をしながら、リヴィッドは自分の心臓が、早鐘のように鳴り響くのを聞いていた。

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