赤い森

鈴代なずな

一章

第1話

■1

 隊商というものがある。

 商人たちが、商材を積んだ馬車――といっても引くのはもっぱらラバやラクダだが――の編隊を組み、町から町へ渡り歩くという一団だ。

 これは道中で賊に襲われないようにするための、自衛連合というべきものだった。そのため、時には医師団などの全く異なる業種の者たちとも行動を共にする。

 もっとも本来、隊商と呼ばれるのは貿易や運輸を行うものだが、単純な行商の集団も同様に呼ばれることがある。

 少年――リヴィッドの属する隊商も、そうした行商集団だった。

「おい、いつまでやってんだ!」

 夜。野営のために停止した、薄暗い幌馬車の荷台で。リヴィッドがランプを片手に額を拭うと、背後からそうした男の怒号が飛んできた。

 リヴィッドは最初、振り向かないまま胸中で舌打ちし、顔をしかめた。

 そのまま、声には出さず呻く。

(いつまでもクソも、商材の点検を始めてから、まだ大して経ってねえだろ)

 荷台は一般的な馬車と同じ板作りになっている。長く使われているものらしいが、それでも板にひびや隙間が生まれていないのは日頃の念入りな整備の賜物だろう。ただ、白いはずの幌は流石に薄汚れて黒ずんでいる。

 そうした荷台には商材がぎっしりと詰め込まれ、中を窮屈なものにしていた。積まれた多くは木箱で、特に重要なものは厳重にロープで固定されている。

 しかしリヴィッドの足元には一つだけ、開けられたものがあった。縦長の木箱で、中は空っぽ、というより取り出されている――リヴィッドが取り出したのだが。

 鏡だ。多少くすんでいるが、人の頭から腰ほどまでの高さがあり、これだけの大きさとなれば王宮に売り付けることもできるだろう。

 それはランプの光を受けて、人の姿を映し出していた。

 吊り目で人相の悪い、しかしそこに幼さの残る、黒髪の子供だ。汚れの目立たない土色をした、厚手の作業着のようなものを着込んでいる。ただしそれはサイズがやや大きく、手にはそれよりもやや濃い色をしたグローブ、足は補強されたブーツと、十五歳という年齢――そして年齢のわりに小柄な体躯――には不釣合い極まりなかった。

 しかし諦めるしかないのは、それがリヴィッド自身の姿であるために他ならない。

 その奥に別の男が見える。

「聞いてんのか? 四番車の点検は終わったのか!?」

 男は先ほどよりもさらに苛立ちを増させた、がなり声をぶつけてきた。

 リヴィッドは渋々と、鏡を丁寧に布で包んで箱に戻し、ロープで固定するまでの時間をさらに待たせてから、暗さを利用して不満たっぷりの顔のままで振り返った。

 そこにいたのはリヴィッド以上に不満そうな怒り顔を荷台に突っ込んでいる、厳つい中年の男だ。名前は確か、ミックといったか。左腕に巻かれたバンダナが見える。

 急かす男の様子に、リヴィッドは肩をすくめて吐息と共に声を出した。

「……丁度、今からやるとこだよ」

「チッ、それじゃおせぇんだよ! 言われる前に終わらせとけ!」

 即座にミックは、さらに激昂した声を返してきた。リヴィッドはそれにまた舌打ちする。

(無茶苦茶言いやがる。怒鳴り散らすためだけに来やがって)

 この男が、こうして声を荒げてきたのは、今日だけで何度目だったか。数える気にもならないが、全て同じような内容だった。ただひたすらに急かしてくる。ひどい時には馬車を一周しては、まだ終わらないのかと怒鳴ってきたことさえある。

 と――その不満を、しかし口には出せず溜め込んでいると、外からさらに別の怒号が響いた。

「おい、ガキに言う前にてめえは終わったのかよ!」

 別の隊員が、ミックに対して激昂していたらしい。しかしミックの方も即座に首を外へと引き戻し、言い返す。

「うっせえ! こっちはガキのお守りまでやらされてんだ! 文句があんならてめえがお守りを代わりやがれってんだ!」

(お前の作業まで俺のせいかよ)

 また胸中で、呻く。ただしそれとは無関係に、外の男はなおさらヒステリックに言う。

「あぁ!? 昨日は俺がその役だったんだよ!」

「だったらこのガキの手際もわかんだろうが!」

(代わる代わる俺をいたぶってストレス解消してるだけだ)

 リヴィッドには常に『お守り役』と称される監視が付いていた。毎日違う隊員が、しかし毎日同じ方法で声を荒げてくるのだ。

 少なくともリヴィッドは、やっておけと言われた仕事を規定時間でこなしても、遅いだのなんだのと難癖を付けられた。やり方を知らない作業などは、手順を聞けば自分で考えろと突っぱねられ、考えて間違えれば結局は同じことだ。

 リヴィッドは過去に一度、そうした理不尽な状況を隊長に訴えたことがある。しかし彼は「言われたくなければ、言われないようにしてみせればいい」と言うだけで何も改善はしなかった。

(どいつもこいつも、ふざけやがって)

 近くにある木箱でも蹴り付けたい気分だったが、それは堪えた。こんなところで理性が働くことにも苛立つが、仕方なくリヴィッドは次の馬車へ向かおうとして――

「ちょっとあんたら、さっきからうるさいよ!」

 荷台を出る直前、そんな声が聞こえてきた。

 若い、かといってリヴィッドよりはずっと年上の、女の声だ。リヴィッドはそれを聞いて、すっと急速に怒りが引いていくのを自覚した。同時に顔が熱くなるが。

「こんなところで騒いでる暇があったら、さっさと仕事を済ませな! 時間なんていくらあっても足りないんだよ」

 女がそう言うと、男たちは何か反駁しかけたようだが、適当に小さく毒づくだけで素直に従ったらしい。不満そうに土を蹴りながら去っていく足音が聞こえた。

 それと入れ替わるように――ばさっと荷台のカーテンを払って顔を突っ込んできたのは、今度はミックとは全く違う、女だった。

 普段は後頭部の辺りで纏めている栗色の長髪を、今は下ろしている。青い瞳は吊り気味ながら、柔らかい優しさが篭っていた。リヴィッドよりも十近く年上だが、整った顔立ちはそれを感じさせない。手足は細いが豊満に見える体躯も、その一翼を担っているだろう――身体はカーテンの向こうなので今は見えないはずだが、リヴィッドには容易に思い出せた。

 その女――フレデリカはリヴィッドの姿を認めると、やれやれというように苦笑した。

「やっぱりあんただね。しょうがないね、あいつらも。大丈夫だったかい?」

「あ、ああ……別に」

 口ごもるように言って、目を逸らす。それと一緒にランプを下げたのは、頬の上気を悟られたくなかったために他ならない。

 フレデリカはそれを知ってか知らずか、気の強そうな声音を柔和にして、

「黙ってばっかりじゃ、あいつらも付け上がるんだ。たまにはガツンと言い返してやった方がいいよ。何かあったら、あたしが力を貸すからさ」

「別に、俺はこれくらい、なんともねえし……」

 もごもごと声を篭らせながら、あくまでも突っぱねるリヴィッドに、彼女はとうとうくすりと笑い声を漏らした。少年がそれに顔を赤くするのは、流石に彼女も気付いただろうが。

 バツ悪そうに唇を擦らせていると、フレデリカが言ってくる。

「けどまあ、仕事の方もしっかり頼むよ。町に着くまで、あと二日なんだしね」

「わ、わかってるよ」

 答えると、それで満足したらしい。顔を引っ込める代わりに出してきた細腕を軽く横に振ってから、彼女も自分の持ち場へ戻っていった。

「……まあ、元々仕事はやるつもりだったわけだし」

 誰にでもなく言い訳のように呟くと、リヴィッドは軽い足取りで荷台から飛び降り、次の馬車へと駆けていく――と、その時、サイズの大きいズボンのポケットに、とある感触を感じたのだが。

 今は無視せざるを得なかった。

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