第四章 ラテーネ高原
第一話 大切なひと -前編-
ミサヨ: ウイカちゃん、元気そうでよかったね~
カリリエ: 別れるとき、あんなに泣くなんて恥ずかしかったよ
照れるカリリエを見て、「実は嬉しいくせに」と、ミサヨはニヤニヤした。
午後のラテーネ高原は急激に雲が広がり、今にも雨が降りそうな
ジュナ大公国、サンドレア王国、バスクート共和国、そして港町セビルナへと繋がる交通の要所でありながら、天気の変化が激しいのがこの土地の特徴である。
サシェ、ミサヨ、カリリエ、アンティーナの四人は、ウィンダム連邦から飛空艇で移動したジュナ大公国で一泊した後、早朝からショコルでラテーネ高原に向けて出発したのだった。
ショコルとは、乗用に訓練された飛べない大型の鳥であり、冒険者の足として広く利用されている。
一人乗りで、時間はかかるが飛空艇航路程度の距離を休みなしで走ることができる。
飛空艇や船のように航路が決まっているわけではないので、今回のように自由に長距離を移動したい場合には便利だ。
ジュナ大公国を出て、タバリア丘陵からジャグアー森林を午前中に抜けた一行は、ラテーネ高原に入ったばかりであった。
巨大な白い塔が視界に入る――ラホの岩だ。
世界で三か所だけ確認されている特殊な場所。
白魔法〈
このラホの岩に飛ぶためには、〈
アンティーナ: 呪いの指輪さえなければ、〈
今まさに通り過ぎようとしているラホの岩を、うらめしそうに見上げるアンティーナ。
サシェやアンティーナのような高レベル黒魔道士は、低レベルの白魔法も使うことができるのが普通だ。
〈
サシェ: ショコルの旅も悪くないさ
白絹の衣に
マリィの死のカウントダウンが始まっている。
その焦りから逃れるように、サシェはつぶやいた。
ショコルは風を切るように速く走る。
走りながらの通常の会話は不可能であり、四人はリンクスパールを通して会話していた。
細く短いシルバーの鎖で首にぶら下がる銀の小さなプレート。
その表面に固定されたさらに小さな艶消しブラックのプレートは黒鉄鉱を原料にしたダークの小札である。
その小札に埋め込まれた紫がかった白いパールが、リンクスシェル・ミニブレイクのリンクスパールだ。
ミサヨが一晩で四人分を作ってきた、リンクスパール用のチョーカーである。
一瞬でアイテムを生成するエーテル合成には、このようなレシピはない。
彼女の手作り――ミサヨが鍛冶と彫金に長けていることを示す逸品であった。
ウィンダム連邦からジュナ大公国へ出発する朝の待ち合わせで、パール付きチョーカーを自慢げに見せたミサヨの顔を、サシェは今でも覚えている。
エーテル合成しか経験のないサシェは、その完璧な作品を見て素直にミサヨを尊敬した。
その表情を見たミサヨは、さらに嬉しそうに微笑んでいた。
カリリエ: ミサヨ、こっちよ
いきなりのカリリエの声に、先頭を走っていたサシェがショコルの足を止めた。
それに合わせて、カリリエとアンティーナも止まる。
見ると、ミサヨがひとりだけ外れた方向に走っていた。
ようやく止まったミサヨの首からは、チョーカーが外されている。
リンクスシェル会話が届かない状態にもかかわらず止まったのは、おそらくカリリエが直接
しばらく止まったままだったミサヨが、ようやくチョーカーをつけるのが見えた。
ミサヨ: ごめん、ごめん。ちょっとパールを変えて、そっちの会話に集中しちゃってた
そういうことか――と、安心する三人。
ミサヨは、
ショコルに乗ったまま、申し訳なさそうな顔で戻ってくるミサヨ。
リンクスパールの掛け持ちは、こういうときに不便である。
カリリエ: 気をつけてね、ミサヨ。ここは崖が多いんだから……落ちたら死ぬよ?
ここラテーネ高原には、巨大な亀裂のように切り立った深い谷がいくつもあり、落ちれば間違いなく死ぬ。
さすがに落ちる前にショコルが勝手に止まるだろうが、崖に近づけば危険なことには変わりない。
ミサヨ: うん、ほんとにゴメンね
サシェ: もうすぐ例の場所だ。雨が降り出す前に、ここで食事にしておこう
霊獣カーバンクルに会えるかどうかはわからない。
だが、腹ごしらえをしておくなら今がいいとサシェは思った。
「賛成ですわ。おなかペコペコだったのです」
さっさとショコルから降りるアンティーナを見て、三人が笑った。
ショコルとは、ここでお別れになってしまう。
乗り手を降ろしたショコルは、自発的に元の厩舎へ帰るよう訓練されているからだ。
サシェはショコルの羽毛に覆われた首元をたたいて別れを告げた。
(この先に、霊獣カーバンクルに会える場所があるはずだが……)
空を渡る暗い雲はスピードを増しており、不気味な雰囲気をかもし出している。
楽観的な気分には、なかなかなれなかった。
このとき、四人の指にはまった呪いの指輪が、かすかに暗く青い光を放った――。
そのことに気づいたのは、仕事を終えて厩舎に帰ろうとしている一羽の若いショコルのみである。
彼は小さくクエ――と鳴くと、急いで駆け出した。
雨雲で暗くなりつつあるラテーネ高原から、一刻も早く逃げ出そうとするように。
***
それは、突然やってきた。
遠くで雷鳴が聞こえたかと思うと、大粒の雨が降り出し、ラテーネ高原はドシャ降りの大雨に見舞われた。
空はあっという間に分厚い黒雲で覆われ、昼間とは思えない暗さだ。
やがて網膜を焼くような強烈な光のスジが視界の隅に映ったかと思うと、落雷の轟音が鼓膜をつんざいた。
急激な天気の変化は、この高原の特徴である。
サシェたちが急いで昼食を終わらせたとき――それは、突然やってきたのだった。
「何か……感じない?」
カリリエが腰に下げたエスパドンに手をかけてそうつぶやいた。
このとき、アンティーナだけがすでに両手棍を構え臨戦体勢に入っていた。
「南南東から来ますわ」
ほぼ同時に、サシェとミサヨも気づいた。
間欠的に訪れる落雷の振動とは全く別の、徐々に大きくなる地響き。
南方向の視界を遮っている小高い岩山の向こうから、巨大な何かが近づいてくる――。
「よりによって、こんなときに出くわすなんて……」
サシェのセリフは、地響きの正体を知っていることを意味しており、仲間の不安な意識を自分に向ける効果を発する。
次に出す指示を正確に聞いてもらうためだ。
すぐに、まっすぐに立っていることさえ困難なほどに地面の揺れが大きくなり――。
……ついに、岩山の陰からソレが姿を現した。
岩山とほぼ変わらないくらい巨大で、やや黄ばんだ白色の毛におおわれた神羊族のノートリアス・モンスター――。
その頭部から生えた二本の角は、まるで飛空艇で闘ったシェンを頭に二匹乗せているかのようだ。
その口から噴き出す白く荒い息が、サシェたちを見つけた興奮を示していた。
「ランドルフだ――逃げろっ」
叫ぶサシェ。
こちらには、高レベルのカリリエとアンティーナがいる。
それでも、到底たちうちできはしない……。
“血眼のランドルフ”と呼称されるラテーネ高原のヌシと闘うのであれば、一国の軍隊でも連れて来なければ話にならないのだ。
やつは見つけた者を容赦なくなぶり殺す――逃げるしかない。
雷雨の中を散り散りに走る四人。
無我霧中で走るしかなかった。
誰もが感じずにはいられない恐ろしい予感――。
……おそらく……誰かが死ぬ。
サシェが振り返ると、ランドルフがミサヨを追いかけているのが見えた。
その先には、たしか――。
「くそ……っ」
ミサヨの前方には、深い谷が口を開けて待っているはずだ。
落ちれば絶対に助からない。
ミサヨに追いつこうとするサシェだったが、なかなか思うようにいかなかった。
豪雨のせいで、地面を流れる雨水が足を滑らせる。
ランドルフの巨体が地面を揺すり、両脚がもつれる。
サシェ: ミサヨ、そっちは崖だ
ミサヨがミニブレイクのチョーカーをつけているかどうかはわからない。
(頼む……気づいてくれ)
サシェの心の叫びに応えるように、ミサヨの思念がチョーカーから響いた。
ミサヨ: わかってる……
その返事に、ほっとするサシェ。
……だが、ミサヨが方向を変える様子はない。
ミサヨ: レベル1に制限された私が、あなたを――みんなを救う方法は、これしかないから……
一瞬、ミサヨが何を言っているのかわからなかった。
サシェは知らなかった。
ランドルフが最初に追いかけたのは、サシェだったのだ。
それに気づいたミサヨが間に割って入り、巨大なノートリアス・モンスターを自分のほうに引きつけた。
ミサヨは、ランドルフと心中するつもりだった。
この短時間に、そこまでの決心をしたのだ。
……大切なタルルタ族と、その仲間を救うために。
サシェ: バカヤロウ……っ
ミサヨのほうに向かって必死に駆けるサシェ。
カリリエとアンティーナもリンクスシェル会話で何か叫んでいたが、サシェの意識には届かなかった。
ふたりの位置は、サシェよりもずっとミサヨから遠い。
ミサヨの走る先とサシェの走る先――その交点に、地面の終わりが見えた。
垂直――いやオーバーハング気味でさえある崖の底は、かすんで見えるくらい遥か下にある。
(いくらノートリアス・モンスターでも、そこから落ちれば助からないはず)
今にも崩れそうな崖の上にたどり着いたミサヨが、くるりと身体の向きを変えた。
興奮したランドルフが荒い息を吐きながら、一直線に追ってきている。
地面は波打つように揺れ、今にも崖から足を滑らせそうなミサヨ。
ミサヨが何かの魔法の詠唱を始めた。
レベル1の黒魔道士が使用できる魔法はたったひとつしかない。
〈
もちろん、ダメージなど与えることはできない。
ただ小山のような身体を揺すったノートリアス・モンスターは最高の興奮状態になり、獲物に追いつくために一気に全速力で駆けだした。
……ミサヨの狙い通りに。
ミサヨしか見えていないランドルフ。
必死に走り続けるサシェ――息が切れて、魔法を唱えることさえできそうもない。
そのノートリアス・モンスターがまさにミサヨに達しようとしたとき、ミサヨが軽く後ろに跳ねた――。
……その足元に、地面はない。
「ミサヨ……っ」
サシェのノドからは、かすれた声しか出なかった。
ランドルフは目標が突然消えたことを認識する間もなく、慣性の法則によって崖から空中へ飛び出していった。
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