第二話 下層の歌姫 -後編-
ラフな服に着替えたカリリエとミサヨが、店内でグラスを交わしていた。
カリリエがミサヨを誘ったのだ。
「どうしちゃったの、ミサヨ? あんなやつに好き勝手言われて黙っているなんて」
ミサヨのグラスにオレンジジュースを注ぎながら、カリリエが尋ねた。
「まさかとは思うけど、あのタルルタ族に惚れてる――とか?」
心配げに顔をのぞき込んだカリリエに、ミサヨが元気のない笑みとともに首を横に振った。
「違うよ。そうじゃない」
「やっと、口をきいてくれた」
顔をのぞき込んだままのカリリエが、ほっとした様子で笑みを浮かべる。
カリリエがミラス族の少女とうまくいっていないことを、ミサヨは思い出した。
「あ、ごめん。なんていうか……ショックだったんだなぁ」
「そりゃそうだよ。あんな酷い言い方ができるやつは、ろくなやつじゃないね」
カリリエがそういう言い方で元気づけてくれることを、ミサヨは知っていた。
――そして、少し元気が出てきた。
「まぁねー、あの言い方は酷いよねぇ」
「そうそう」
ふたりに笑顔が戻った。
突然、ミサヨが顔の前で手のひらを合わせると、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、カリリエ。さっきの薬、捨ててくれる?」
笑っていたカリリエの眉が、ピクリと反応した。
「……何よ、ミサヨまで。ミサヨだけは私のこと、わかってくれていると――」
「そうじゃないの」
合わせた両手の横から、ミサヨが情けない顔を見せた。
「私の勘違いです。“好意を持つ魔法薬”――って、てっきりその……いわゆる“惚れ薬”のことだと思ってさ」
「――え?」
キョトンとするカリリエ。
「正直に言うと、ちょっとインチキくさい露店で、話のネタとして安く買ってきただけなんだ」
「――ええっ?」
カリリエの顔も情けなくなってきた。
「しかも……効かないことが、ついさっき証明されたばかり」
「…………」
「…………」
「……使ったんだ……あのタルルタ族に……」
「なかなか面白い反応だったんだけどね」
ふたりが同時に吹き出し、夜の酒場に、再会した友人どうしの明るい笑いが響いた。
***
歌姫カリリエがまどろみの中でゆっくりと目を開けると、いつもの朝と少し様子が違った。
たしかに自分の部屋なのだが、何かが違う。
狭いベッドで寄り添って寝息をたてているミラス族の少女は、一年前から面倒をみている七歳のウイカ。
旅商人が雑用を手伝わせていた孤児の彼女を引き取ったのだ。
埋もれさせるわけにはいかない天性の声質と音感の才を備えた愛すべき少女。
見つけたときには引き取ることを決めていた。
最近は心を開いてくれなくて、交わす会話がめっきり減っている。
昨夜はウイカのステージデビューだったが、打ち合わせが不十分だったせいで出だしから不安定だった。
客は気づかなかったと思うが、ウイカが打ち合わせとは違うキーで歌い始めたのだ。
彼女がそうしたいと言ったのを、歌の雰囲気が壊れるからダメだと教えたはずだった。
ステージの後に再度理由を説明したのに、ムッとしたまま舞台裏から出て行ってしまった。
そのウイカが自分のベッドにもぐり込んで来たなんて珍しいことだと、一瞬嬉しく思うカリリエ。
だが、彼女はすぐに思い出した。
昨夜はミサヨを泊めるために自分のベッドを彼女に譲り、隣にあるウイカが眠るベッドで寝たのだった。
少し部屋の景色が違って見えたのは、そのためだ。
ウイカを抱くようにして身体を横に向けると、隣のベッドの上でミサヨが座ってゴソゴソと何かをしていた。
カーテン越しの柔らかい早朝の光に浮かぶのは、八頭身の白く美しい肢体。
上下とも白い下着姿で片ヒザを立て、足先に腕を伸ばしている。
靴擦れを防ぐためのテーピングをしているところだった。外出準備中というわけだ。
(お互いが十二歳からの付き合いだけど、いい女になったなぁ)
そんなカリリエの心の声が聞こえたかのように、ストレートの黒髪が揺れてミサヨがカリリエを見た。
「ごめん、起こしちゃったね」
「ううん」
ミサヨは無言でテーピングを続けた。
それをしばらく眺めていたカリリエが横になったまま、なんでもないことのように言った。
「謝りに行くなら――」
ミサヨの手が止まる。
「――いたずらで惚れ薬を飲ませたことだけにしときなさいよ。ウイカに薬を飲ませる話は、ミサヨは知らなかったんだから」
無表情のミサヨと、無表情のカリリエの目が合った。
「……うん、わかった。――カリリエさんは、なんでもお見通しですか」
ミサヨは
足の保護を兼ねて、ヒザ下まで木綿のテープを巻いていく。
「昨夜私が付き合わせなかったら、その足で謝りに行くつもりだったでしょ? そんなの、あいつをつけあがらせるだけなんだから」
カリリエの指摘に、静かに微笑むミサヨ。
「普通は、そうかもね」
その答えは、カリリエにとって面白くなかった。
「ほほぅ、“普通は”ときましたか。前に話を聞いたときにも思ったけど、ミサヨさんは、サシェ様を偶像化しすぎじゃありませんかね?」
「もー、からかわないでよ」
ミサヨの軽い返事に、間髪入れずに続ける歌姫。
「私はミサヨが心配なの。今まで軽く流してきた男どもに対する態度とは、全然違うんだもん。――なんか、
ふたりの視線が重なる。
そのまま裂いたテープの端と端をヒザ下で結びテーピングを終えると、ミサヨはカリリエのほうに身体を向けて、ベッドの端に座り直した。
「……サシェと私は共通の目的のために契約を結んだけど、まだ知り合ったばかりだから、お互いに今どう出るかが今後の関係に重要だと思うの」
カリリエがすぐに口を挟んだ。
「そうかもね。だったらなおさら――向こうの勘違いなんだから、向こうに謝らせるべきじゃないの?」
ミサヨは頷いた。
「そう。きっとサシェは自分の勘違いの可能性に気づいて、今日中には謝りに来ると思う。でも、それじゃあ、私の負け。先に謝ったほうが勝ちなのよ――私とサシェの場合は」
顔をしかめるカリリエ。
「わけがわかんない。だいたい何で勝ち負けの話になるのよ? 悪いほうが謝るべきでしょう?」
ミサヨは、本音で語り合える友人の存在に感謝しながら答えた。
「二人の人間がもめたときには、どちらにも謝るべき要素があるわ。一方の要素が大きすぎたとしても、もう一方にも何かしら小さな要素は見つかるはず。結局、お互いに謝る必要があるのよ」
カリリエの目から視線を外さないようにして話すミサヨ。
思い出すのは酒場でサシェが目を覚ましたときのことだ。
あのとき、先に謝ったのはミサヨであり、サシェは後から謝った。
だがもしサシェが寝起きでなければ、先に謝ったのは口を開きかけていた彼のほうだろう。
ミサヨはそう確信している。
「その上でサシェと私は、先に謝ったほうが大人だと思ってる。それだけだよ」
今度は、カリリエは黙っていた。
接客業にある彼女は、心ない客に自分から頭を下げることもある。
だが今話しているのは、もっとプライベートな人間関係のことだ。
常に自分が先に謝る関係など、願い下げだとカリリエは思う。
自分が相手を信頼し、相手も自分を信頼していなければ、いずれ深く傷つくことになるに違いない。
何があってミサヨはここまで、サシェというタルルタ族を信用するに至ったのか?
それは、遠くない未来に死が確定している少女に、未来を約束する決意。
そして、呪いの指輪に力を奪われていながら、強大な魔物の脅威に立ち向かう決意。
言葉にすればそれだけの、他人から見れば無謀で迷惑としか思えないだろう行為が、彼女の心を深く揺さぶったからだ。
それらはミサヨにとって、したくてもできないことだった。
自分の限界に絶望し、理不尽な運命を呪い、人知れず枕を涙で濡らしたことだった。
だからこそ同じ境遇にあったサシェが見せた決意が、そこにともなう強い意志と勇気が、本物であり信頼に足るものだと彼女は確信したのだ。
少なくともシェンについては、本当に倒してしまったのである。
それはミサヨ自身にとってはすでに自明の理だが、話を聞いただけのカリリエにはわからなかった。
それでもミサヨの考えを自分なりに解釈した彼女は、それを自分の言葉で伝えることにした。
「さっき、“先に謝ったほうが勝ち”ってミサヨは言ったけど、ちょっと違うと思う。先に謝ることが、“相手を信頼している”っていうアピールになるってことでしょう? それは、つまり――」
話が終わったと思い、すっかり身支度を整えつつあったミサヨは、カリリエの言葉に慌てて反応した。
「う、うん、そうだね。カリリエの言う通りだと思う。私は――」
真剣な表情になるミサヨ。
「サシェに、私を信頼してほしいんだ。私が、彼を信頼する以上に」
それから急いで付け足した。
「もちろん、一番信頼しているのはカリリエだよ? こんな話をしたの、カリリエだけなんだから」
カリリエが苦笑し、ミサヨが微笑んだ。
ミラス族少女のウイカが、眠ったままもぞもぞと動く。
「じゃあ、私、行くけど、その前に聞いておきたいことがあるの」
ミサヨの言葉に、カリリエはドキリとした。
「何?」
「――カリリエは、サシェのことをどう思った?」
カリリエは頭をぽりぽりと指で掻いた。
「……かなりムカツクやつだね。あいつの、ばかみたいに真剣な顔と言葉がチラついて、昨日はなかなか寝つけなかったわ」
――大切な記憶のすべてが、嘘になってしまう。
その言葉を搾り出すように口にしたときのサシェは、ミサヨにとっても強烈な印象だった。
「んー、サシェに会わせた効果ありかな?」
「何ですって? ミサヨ、もしかして、私を説得するために彼を連れてきたの? ウイカのことで?」
ミサヨが顔の前で手を振って否定した。
「そこまで計算してないよぅ。私がカリリエの悩みを聞いているだけじゃ、何も変わらないって、思い始めたところだったし。カリリエがウイカちゃんのことで本当に悩んでいたから、第三者に聞いてもらうのもいいかな……とは、ちょっぴり……」
ミサヨの言い訳に、カリリエが溜め息をついた。
「ミサヨって、実は策士だからなぁ。まぁいいけど。とりあえず、もう薬を使う気はないから安心して。――でも、どうしていいのか余計にわからなくなっちゃったよ……」
ベッドに上半身を起こして、カリリエは眠るウイカを見つめた。
愛らしい寝顔。
その内には、けして他人には真似できない才能が輝き始めている。
その才能をもっと花開かせたい。
皆に大切にされる幸福な人生を歩んで欲しい。
――その想いが、空回りする日々がつらかった。
ミサヨがカリリエに近づいて、その肩を後ろからそっと抱いた。
「どうなるかはわからないけど、午前中にこの人を訪ねてみて。何かのきっかけになるかもしれない」
四つ折りの小さな羊皮紙を手渡しながら、ミサヨがささやいた。
カリリエが力なく紙を受け取ったのを確認してから一泊の礼を言うと、まだ目覚めないウイカの頬に軽くキスをしてミサヨは部屋を出た。
廊下を抜けて酒場の店内に入ると、昨夜カリリエとウイカが歌ったステージの前を通り、店の出口の扉を開ける。
早朝の時間帯であり、従業員たちは寝静まっているのだろう。途中、誰にも会わなかった。
外の明かりがまぶしい。
ミサヨの行き先は決まっていた。
先ほどカリリエに渡したメモ――それは、サシェがこのジュナ大公国で訪ねる予定だと言ってミサヨに渡したものだ。
上層区に病院を構える世界一の名医、モンブラーの名前と住所が記されている。
「おっと、すまねぇな」
下層区の雑踏で、二人連れのレウヴァーン族がミサヨの肩にぶつかって通り過ぎた。
彼らの指に、白いパールの指輪がはめられていたことに、ミサヨは気づかない。
その白いパールには、スペードに似た模様が浮かんでいた。
ベッケルが、ジュナ大公国で仲間を見分ける目印だと言った指輪である。
そのリングは呪いの指輪よりも細く、石留めの爪もしっかりしたものだった。
「この酒場で間違いねぇんだな?」
「昨夜のステージで確認したんだ。間違いねぇよ」
雑踏の中、男たちが交わす言葉を気にする者はいなかった。
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