第三話 霊獣の呪い -前編-
(……まったく)
宿で目覚めたサシェは、ベッドで上半身を起こしたものの、そのまま顔に片手を当ててため息をついた。
昨夜の酒場のステージ裏での自分の振舞い――ミサヨと初対面のカリリエを感情のまま頭ごなしに否定してしまったことを、深く恥じていた。
吹っ切れていないことは、わかっていた。
常に心の奥に引っかかっている過去の出来事。
それがまさか、あれほど感情を高ぶらせることになるとは思っていなかった。
ミサヨとカリリエに謝らなければならない。
だが、彼女たちに会うアテはあの酒場しかないのだから、夕方の開店時刻までは待つしかないだろう。
いきなりの
そこまで考えたサシェはもう一度だけ溜め息をつくと、頭を振って顔をぴしゃりと叩いた。
(モンブラー
***
軽い朝食を済ませたサシェが上層区に出ると、街を潮風が渡っていた。
ジュナ大公国は、クォナ大陸の二か所とミンダルシム大陸からそれぞれ伸びる三本の巨大な橋が交わる点を中心として、橋の上に建造された国家である。
三本の橋の高さが異なるため、上から上層区、下層区、港区と名付けられている。
庶民の多くが暮らす下層区に比べて上層区は行政機関や大きな教会があり、民家も立派なものが多いため、街並が上品に見えるのが特徴だ。
だからといって、住人が強制的に住み分けられているわけではない。
それどころか、三本の橋が交わる国の中心を貫く塔――その最上階にあるル・ルデの庭と大公宮の一部でさえ、庶民に開放されているのだ。
それはジュナ大公国を治めるカムリナート大公のイメージアップに少なからず貢献している。
上層区にある大きな教会の隣に、モンブラー医師の病院がある。
サシェが知り合って八年になるが、彼の印象は初めて会ったときから全く変わっていない。
初対面での若い医師の第一声はこうだった。
――こんにちは。初めての方ですね。
事前に問診票に記入したわけでも、もちろん膨大な量のカルテを見返したわけでもない。
彼の頭には何百人という患者の顔がインプットされている。
ある程度の病歴、性格さえ顔を見ただけで思い出せるようだ。
知性より体力に優れると言われるレウヴァーン族でありながら、その記憶力は知性に優れるといわれるタルルタ族の平均レベルをはるかに超えている。
身体の悩みも心の相談も引き受けると言った彼は、最後にこう付け加えた。
――何かあったらまたお気軽に来てみてください。ほんの茶飲み話でもかまいませんから。
彼の知性は、優しい心遣いに包まれている。
受付で面会希望の旨を伝えようとしたサシェは、いきなり背後から声をかけられた。
「いらっしゃい、サシェさん。今日はどんな事件でいらっしゃったのですか?」
世界一の名医は、八年前と変わらない慈愛に満ちた笑みでサシェを迎えた。
深く頭を下げるサシェ。
「ご無沙汰しております、先生。お訪ねするときは、いつもロクでもない話ばかりですみません」
自分より十歳近く若い医師を、サシェは尊敬していた。
「いえいえ、いつでもお気軽に来ていただく約束のはずですよ」
ベッケルに爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
同じレウヴァーン族とは到底思えない――というのが、サシェの率直な思いだ。
「お手間は取らせません。実は――」
サシェはその場で、マリィの病気のこと、白絹の衣のことを要領よく伝えたつもりだったが、モンブラーからの質問に答えるうちに十五分くらいかかっていた。
「ふむ……」
アゴに手を当てて少し考え込んだモンブラーは、おもむろに口を開いた。
「サシェさんにお願いがあります」
「私にできることであれば、なんでもお引き受けします」
即答したサシェに、モンブラーがにっこりと微笑んだ。
「この件について、少し自室で調べてみたいことがあります。一時間もかからないと思いますので、その間――」
モンブラーの次の言葉は、完全にサシェの想定外だった。
強大な魔物を倒して来いと言われるほうが、よほどマシだったろう。
「――今、休憩していただいている患者さんを、あなたが診てください」
すぐに返事ができないサシェを見て、世界一の名医はあいかわらずニコニコしている。
なんとかサシェの口から出てきた言葉は、情けないものであった。
「ええと……その、それは……“私にできること”の範囲内なのかどうか……」
「いいえ。私よりサシェさんのほうがずっと適任だと思いますよ。この患者さんに限っては」
その一言は、サシェの冒険者としての勘を静かに刺激した。
事の成り行きに、アダルナの女神か、目の前にいるモンブラー医師か、あるいはサシェの知っている他の誰か――の思惑を感じる。
「承知しました。できる限りのことはさせていただきます」
***
果たして診療室で待っていたのは、下層の歌姫その人であった。
「あっ」
モンブラーと一緒に診療室に現れたサシェの姿を見て声を上げるカリリエ。
その驚く顔とは対照的に、モンブラーの口調は落ち着いていた。
「おふたりはお知り合いでしたか。それなら話は早いですね。私の代わりにあなたの相談に乗ってくださるサシェ先生です」
それでは――と言ってモンブラーが診療室を出ると、部屋はカリリエとサシェのふたりだけになった。
「…………」
黙り込んだカリリエの前に歩み寄ると、サシェはモンブラーのときと同じくらい深く頭を下げた。
「昨夜は、申し訳ありませんでした」
「……謝るなら、ミサヨに謝ってよ」
カリリエはイライラしていた。
サシェに対してではなく、自分にだ。
顔を上げると、サシェは寂しそうに微笑んだ。
「ミサヨにも謝るつもりです。でも、私がミサヨに言った言葉は、あなたのことを非難するものでした。事情も聞かずに申し訳なかったと思っています」
「ああ、もう――」
カリリエの頭には、ミサヨの言葉が蘇っていた。
――先に謝ったほうが勝ちなのよ。
サシェに対して“負けた”という思いが、勝手にわいてくる。
それは口にしなくても、カリリエ自身がサシェに対する感謝の気持ちを自覚しているからだ。
サシェの言い方は酷かったと思うカリリエ。
だが、そのおかげでウイカに薬を使った後のことを想像することができた。
自分の考えが浅はかだったと、今は思っている……。
この勝負に一発逆転する方法が、カリリエにはある。
彼女自身にもそのことはわかっていた。
だがその言葉を口にすることは、今までの人生で数回あったかどうかの勇気を要求されることだ。
「その――」
カリリエの声は小さくて、最初は聞き取れなかった。
顔から火を吹くとはこのことか――と、自分の顔が異常に熱くなっていることを自覚すると、ますます顔が熱くなる。
自然に顔を伏せてしまうカリリエだが、背の低いタルルタ族のサシェからは真っ赤な顔が丸見えだった。
「もう、薬を使う気はないから……えと……止めてくれて、ありが……と……」
目を閉じて感謝の言葉を口にするカリリエは、歳相応の若い娘だった。
そこに歌姫の貫禄はなく――普通に、可愛かった。
いきなりカリリエの右手を取ると、サシェはその手に額を寄せてうつむいた。
「ありがとう。思いとどまってくれて、ありがとう……」
サシェの言葉も震えていた。
ハッとするカリリエ。
このタルルタ族の強い感情は、いったいどこから来るのだろう?
どうして会ったばかりのウイカのことで、ここまで……?
そんな疑問が彼女を動揺させた。
しゃがんでサシェと目の高さを合わせると、カリリエは下を向いたままのサシェの肩をそっと抱いた。
思わずそうしたくなるほど、サシェが小さく見えたのだった。
***
モンブラーは自室で、本棚の奥から引っ張り出した資料をひっくり返しながら、ふと思った。
あのサシェという冒険者は、また他人の子どものことで必死になっているんだなぁ――と。
その理由を聞いたことはまだない。
医者として、彼がひとりで抱え込んでいるものを、いつか解きほぐしてあげたいと思う。
それは八年前からのモンブラーの願いだ。
(彼が自分から話す気になるくらい、私のことを信頼してくれる日がいつか来るでしょうか? 私が彼を信頼するように、彼からも信頼されるようになりたいものです)
若い医師はもう一度机と本棚の間を往復し、机に積み上げられた資料の高さを倍にした。
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