第八話 光陰の中で -後編-
窓のない部屋の中は殺風景だったが、よく片付けられていた。
ランプの光が揺らめくだけでロマンティックな雰囲気を感じるのは……小さな木製テーブルの向かいに座る若い女性のせいだ。
ヒューマン族の彼女は、後ろでひとつにまとめた長い黒髪を美しく揺らして、背後の箱から何かを取り出した。
それは色とりどりのフルーツが載せられた小さな丸いケーキだった。
「四十三歳のお誕生日おめでとう、ザヤグ」
「…………」
表情の変化が乏しいガドカ族の表情を読むことに、彼女は
ザヤグはたしかに顔を赤らめている――それだけのことが彼女を喜ばせた。
だが、無骨なガドカ族の口から出た言葉に愛想はなかった。
「……もう来るなと言ったろ、サキ」
「そうでしたかしら?」
彼女は、持参したナイフでケーキを二つに切り分け始めた。
「このバスクート共和国で、今年に入ってヒューマン族とガドカ族の友好関係は今まで以上に深まったと言われている……だがそれは、商務省のでっちあげた表向きの話だ」
「あ~、うっかりしていましたわ。せっかく買ったワインを、家に置いてきてしまいました」
がっかりするサキに、かまわず話を続けるザヤグ。
「やつらは、南方・東方諸国との貿易を独占するウィンダム連邦から、バスクア海の制海権を奪うことを軍務省に進言している……」
「まぁいいですわ。重要なのはやっぱりケーキですわ、ケーキ」
「ウィンダム連邦が発見した魔法に対抗するため、ガドカ族の武力をあてにしているんだ。だが現実は、ガドカ族とヒューマン族の確執は根深い……」
切り分けられた半分のケーキは小さかったが、サキはそれをフォークでさらに小さく切り取りザヤグの口に運んだ。
「ましてや、自分の娘がガドカ族の家を訪ねているなんて知ったら、君の父上は……」
「いいから、口をお開けなさい」
「だか――」
開いた口に、ケーキの切れ端が押し込まれた。
にっこりと微笑むサキ。
「お味はいかがかしら? 自信作ですのよ」
「う、……うまいよ」
実際には、十分に味わう間もなく飲み込んでしまったザヤグだが、照れるように目をそらした。
「そう。よかったですわ」
嬉しそうな表情の後、すぐに大きなため息をつくサキ。
「私の父は、しがない商人ですわ。大統領府の高官ならともかく、そんなに心配いりませんわ」
「サキ……」
サキはテーブルをまわり込んだかと思うと、いきなりザヤグの太い腕に自分の腕を絡めた。
背の高い彼女だが、ガドカ族から見れば十分に小さい。
「あなたの長い人生の中で、私はあっという間に年老いて土に還る存在ですわ……」
その静かな口調を聞いて、ザヤグは黙った。
……顔を伏せたサキが震えている。
「それまでの……ほんの少しの時間でも、迷惑ですか?」
ほんの少し――というのは、二百年以上の寿命を持つガドカ族にとっての時間だ。
土に還るまで……それは彼女にとって、一生の伴侶を意味している。
短い沈黙の後、ザヤグははっきりと言った。
「…………迷惑だ」
ぱっと腕を離したサキが、顔を伏せたまま勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい。私……勘違いしていたみたいです」
本当にごめんなさい――もう一度そう言うと、彼女は目を合わせないまま扉から走って出て行った。
ぼろぼろに泣いているサキの顔を想像し、追いかけたい衝動をザヤグはぐっとこらえた。
彼女との初めての出会いは、二か月前のコンシュテット高地。
そこでグスケン鉱山での労働の帰り道に、レベルの低い魔物に襲われていた商隊を仲間と助けた。
その商隊長の娘がサキだった。
扉に背を向けると、ザヤグはベッドの枕元に隠しておいた書状を手に取った。
そこには、“徴集令状”と書かれている。
「俺には……おまえに約束できる未来が……ないみたいなんだ……」
***
一ヵ月後――ザヤグは、シルエモ島西岸沖に展開するバスクート・タブジアナ連合艦隊の戦艦に乗り込んでいた。
名目上は、ウィンダム連邦が裏で糸を引く海賊たちの討伐。
だが実際には、バスクア海の制海権をかけたウィンダム連邦との戦争だった。
技術力に秀でたヒューマン族と腕力に優れたガドカ族――ガドカ族は、ほぼ全員が前線に押し出された。
国民の人口比で言えば、ヒューマン族が七割、ガドカ族が二割、残りが一割――にもかかわらず、この戦争で死亡した国民の内訳は現時点で、ヒューマン族が二割、ガドカ族が七割以上となっていた。
その日――ウィンダム連邦艦隊の魔法攻撃により燃えさかるタブジアナ艦の上に、ザヤグはいた。
共同戦線を張っているタブジアナ侯国からの要請で、応援部隊として駆けつけたのだ。
もうこの船はダメだな――と、ザヤグがそう思ったとき、タブジアナの艦長が叫んだ。
「おい、そこのガドカ族。おまえは生き残ったバスクート共和国の衛生兵を連れて本隊に戻れっ」
ザヤグは甲板に伏せていた二人の衛生兵に気づき両肩にかついだ。
そしてハッとする。
左肩にかついだ年老いたヒューマン族の男はすでに死んでいた。
先ほど引き上げていったミラス族の白兵部隊にやられたのだろう。
出港してから家族に宛てて書いたものに違いない。
本国に届けようと思い、預かることにした。
気の毒だが、死体をかついで行く余裕はない。
敵艦からのタルルタ族による魔法攻撃は、執拗に続いているのだ。
右肩にかついだ衛生兵はヒューマン族の女だった。
大柄で、長い黒髪――彼女はまだ意識があり、うつろな顔を上げた。
「……ザヤ……グ……の幻が……見えますわ………」
「………っ」
……サキだった。
***
「大丈夫、歩けますわ」
サキはそう言うと、すでに海面に浮かんでいた脱出用の小船に飛び降りた。
慌ててそれに続くザヤグ。
サキはザヤグに背を向けて後方に座り、ザヤグは小船をつないでいたロープを外すと
タブジアナ艦隊からは砲弾が、ウィンダム連邦艦隊からは魔法の火の玉が、互いに交差するように頭上を飛んでいる。
それらが空気を切り裂く音がうるさかった。
「どうして……まだ若い娘のおまえが、こんな戦場に……」
無口なザヤグが、珍しく自分から話しかけた。
ただし視線は背中のほう――首をひねって船の進行方向に向けている。
サキは長い黒髪のかかった背を向けたまま、黙っていた。
一分以上が過ぎた頃、ようやく口を開いたサキの言葉は……震えていた。
「私の未来が……戦場へ行ってしまったからですわ」
今度はザヤグが黙り、やがて答えた。
「ばかな……戦場の消耗品であるガドカ族の俺と違って、おまえにはまだ未来が……」
「私の未来は……っ。ばかなのは、あなたのほうですわ、ザヤ――」
サキがいきなり立ち上がった。
そしてくるりとザヤグのほうを向き、両腕を広げ――。
……小船が揺れた。
いきなり胸に飛び込んできたサキを受け止めてから、ザヤグは気づいた。
遠方に、ミラス族の白兵部隊を載せて去っていく中型の戦艦が見えた。
船尾ではミラス族の兵士六名が、こちらに向けて構えていたバトルボウを降ろしたところだった。
手にぬるりと血の感触。
サキの背中に、六本の太い矢が深々と突き刺さっていた。
「………サ……キ。俺をかばったのか?」
矢は肺を貫通していて、サキがむせると、口から血が垂れた。
「……こんなとき……ウィンダム連邦の白魔法があれば……ね……」
サキの優しい声が、ヒューヒューという耳障りな声に変わっていた。
「しゃべるな。おまえの気持ちは…………いつだってわかっている……」
驚いたように目を見開いたサキが、にっこりと微笑んだ。
「ガドカ族って、寿命が来ると子どもに転生するんでしょう……? ヒューマン族もね……身体は変わるけど、時代を超えて転生することがあるんですって……」
「死なないで……くれ……サキ………」
ザヤグの目から涙がこぼれていた。
生まれて初めて流す涙だが、本人は泣いていることにさえ気づいていない。
腕の中で……サキの命が、消えようとしている……。
「きっと見つけてね……転生した私を……約束して……幸せにするって……」
サキの涙が頬をつたって、ザヤグの太い腕にぽつぽつと落ちた。
「見つける……何年かかっても……サキ……姿がどんなに変わっていても……」
最後に特上の笑みを見せて……サキは、静かにその短い人生を閉じた。
***
「ザヤグ……ザヤグ……っ」
もうろうとする意識の中で、自分を呼ぶ声にザヤグは気づいた。
(夢を見ていたのか……? 百年近く前の夢を……)
ザヤグの指が、ぴくりと動く。
(いや……死んだはずだ……俺は……ソジエ遺跡の地下で……)
しかし意識は、次第にはっきりしてきた。
(手足の感覚が、たしかにある……)
ゆっくりと目を開くと、そこに二人の女性の姿があった。
ひとりは自分が育てた大切な娘、カリリエ。
もうひとりは――。
「サキ――いや、アンティーナ……」
カリリエはザヤグに抱きついて泣き、アンティーナはそばに立って涙を流していた。
アンティーナの足が埋まっていた鉄の
ザヤグには何があったのかわからない。
そばでは、サシェとミサヨがほっとした表情を見せていた。
落とされた壁――残りの仲間とは
あったはずの血の海は消え、皆が浴びていたはずの血もきれいに消えている。
それはザヤグの、“肉体が失われた”という事象が消去された結果だった。
服代わりにザヤグの身体に巻かれたキャンプ用の布から左手が覗いている。
その小指には、呪いの指輪がはめられていた。
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