第七話 光陰の中で -前編-
第七話 光陰の中で -前編-
サシェ: ……ひとつ教えて
アンティーナ: はい
サシェ: ベッケルがどこにいるかわかる?
アンティーナは少し考えるように言った。
アンティーナ: この奥だとは思いますが、わからないですわ。少なくとも半径十メートル以内にはいないはずですが……
サシェ: うん、わかった。近くにいなければいいんだ
サシェは自分の心を落ち着けるように、ひとつ息を吐いた。
サシェ: これから言うことをよく聞いて。これが主人として最後の命令になる。その後は主従契約を解除するから
アンティーナ: ……え?
言葉に詰まるアンティーナにかまわず、サシェは最後の命令を伝えた。
サシェ: これから言う呪文を唱えて……そのあとで、手に持っている呪いの指輪を指にはめるんだ
アンティーナ: ……はい
疑問を挟まず、従順に返事をするアンティーナ。
サシェは、ラテーネ高原の谷底で聞いた呪文を思い出していた。
霊獣カーバンクルが唱えていた呪文。
その直後に呪いの指輪は、サシェの別の指にはめられていた。
そして、失われたはずの左手中指の再生――。
ベッケルが呪いの指輪として使用していた“カーバンクルの指輪”には、本来の使用法が別にある。
霊獣ディアボロスは言った。
――あの男メ…… 私ガ コレクションにしてイタ カーバンクルの指輪ヲ せっかく与えてやったというノニ…… そんなことに使ってイタノカ……。
霊獣カーバンクルはたしかに語った。
――はるか
残ってしまった闇の影響であるカーバンクル・カース――その犠牲者を救う指輪。
だが、それだけではない。
冒険者のレベルを下げたり、髪を伸ばしたり、指を再生したり――それらは、ある期間に発生した事象をランダムに消去した結果だ。
消去する期間も対象もランダムなのは、正式な呪文を唱えていなかったから。
一生、指輪と付き合うことになるという欠点はあるものの、中指を再生したようにマリィの失われた手足も再生できるはずだ。
失われたという事象を消去することで……。
そして……アンティーナの失われた“穿甲蟲のいない背中”も……。
すべては、呪文を正確に唱えることにかかっている。
呪文に慣れている黒魔道士のアンティーナは、サシェに言われた古代呪文を正確に唱えた。
ハルタ・クレ・アヤ・デ・ラトレ(アヤ女王陛下の望むものを与えたまえ)
失われた 蟲もアザもない背中を
そして、左手薬指に指輪をはめると、指輪が青い光に包まれた。
……正確に呪文が発動した証である。
その様子をアンティーナの後方から見ている者たちがいた。
通路の突き当たりにある吹き抜けの空間――そこにはさらに地下に降りるリフトがある。
その壁の陰からアンティーナの背中のアザが消えていくのを見ているのは、ベッケルだった。
そばには二人の部下もいる。
「なんでしょう、あの光は……聖剣の光に似ておりますな」
部下の言葉に、ベッケルは鼻を鳴らした。
「ふん……爆弾が役に立たなくなってしまったようだな……」
それでもベッケルの余裕は少しも変わらない。
「だが、安心してアンティーナに近づいたときが、やつらの最後だ……くく」
「ですな」
「そうですな」
壁の陰で陰湿な笑いが小さく響く。
背中のアザが消えても、アンティーナが動けないことに変わりはなかった。
***
アンティーナが胸元に両手を重ねて、潤んだ瞳をサシェに向けていた。
十年という長い間、背中に居座っていた穿甲蟲を、醜いアザごと消し去ったサシェ。
それは、ベッケルによる絶対支配からの解放でもあった。
その強く激しい感謝の気持ちは彼女の理性を溶かし、皆が見ている前で下着姿のままサシェを抱き締めたいほどだった。
だが、それができない理由が二つ……。
両足が埋まっている大きくて重い鉄の
もうひとつは精神的な理由だ。
あっという間に終わってしまった主従関係――それはアンティーナが強く切望していたものだっただけに、彼女は今の自分を捨てられた子犬のように感じていた。
サシェにもわかっていた。
それはアンティーナを救うためではあったけれど……その気持ちを利用したことは、死をも覚悟していた人間に対して、失礼で残酷であったかもしれない――と。
「御主……サシェ、ありがとうございます」
結果として、アンティーナの言葉はその内なる激情を理性で包んだものとなり、サシェは一瞬の微笑みを作っただけで、鉄の塊を調べるためにアンティーナの足元にかがんだ。
カリリエはアンティーナが動けないことにかまわず、抱きついて喜びを表現し、ザヤグはサイズが合わず着るのをあきらめていた王国従士制式長衣をアンティーナに羽織らせた。
他のメンバーもアンティーナとの再会を喜んだり、鉄の塊を見て唸ったりしている。
ミサヨが、ふと気づいた。
アンティーナのそばで、ラカだけが……天井を凝視している……。
「ラカ……?」
「しっ」
近寄ってきたミサヨを黙らせたラカの、猫のような耳がピクリと動いた。
その耳はたしかに聞いたのだ。
ガコン――という、何か大きな仕掛けが動く音を……。
次の瞬間、サシェは三メートル先の床に転がっていた。
そのすぐ横にミサヨも倒れ込んでいる。
ふたりともすごい勢いでラカに突き飛ばされたのだ。
ラカ自身は、サシェたちと逆側――通路を戻る方向に跳んでいた。
ガーン――という空気を震わす衝撃音と、床を伝わる振動。
サシェが振り返った場所――アンティーナが立っていたはずのそこに、通路を塞ぐ大きな壁が出現していた。
「なっ……」
急いで立ち上がるサシェ。
目の前には、信じられない光景があった。
突然現れた分厚い壁は、天井から落ちてきたものだった。
その壁は、完全に通路を塞いだわけではない。
床との間に一メートルほどの隙間を作っている。
なぜなら――その壁をガドカ族のザヤグが背中で支えているからだ。
とんでもない怪力で、両手と両ヒザを床に付けて踏ん張っている――が、今にも潰れそうだ。
ほとんどの者は壁の向こう側にいた。
立ち上がったサシェから見えるのは、ミサヨと……壁の下を覗き込んで狂ったようにザヤグの名を叫んでいるカリリエ……。
ザヤグの震える太い腕と……その腕の間であお向けに横たわっているアンティーナ……それだけだ。
これにラカを加えた六人――アンティーナが立っていた場所付近にいたこの六人は、落下した壁に確実に押し潰されるはずだった。
それを救ったのは、ラカのシーフとしての勘と……ザヤグの信じられない怪力。
だが、その怪力も限界だ。
いや、いくらガドカ族とはいえ、人としての力の限界を超える重さのはずである。
カリリエの悲痛な叫びは、もはや何を言っているのかわからない状態だった。
アンティーナが、開いた瞳で眼前にあるザヤグの顔を見つめていた。
厚さが三メートルもある巨大な壁を背中で支えているガドカ族の男の顔は、苦痛でゆがんでいる。
「どうして……あなたは、動けない私の身体をかばうように倒して……」
アンティーナの言葉にザヤグの返事はない。
丸太のように太い腕の筋肉と骨が、その構造を破壊されるミチミチという音を立てている。
「私なんて助かっても……でもあなたには、カリリエが……」
ビキッ――という乾いた音が響いた。
ザヤグの腕が物理限界を超えた音だ。
まるで時の流れが突然遅くなったように、アンティーナは見た。
ザヤグの右腕から、折れた骨が皮膚を突き破って飛び出すのを。
同時に自分に向かって、一気に落下してくる巨大な壁を。
最後に……ザヤグが、ニヤリと笑うのを……。
ガス……ン……――
……それが、壁が完全に落ちた音だった。
閉じた壁の下からすさまじい勢いで床に噴き出した真っ赤な大量の血。
何かが回転しながら飛んできて、サシェの胸にドンと当たり、眼鏡に赤いしずくが飛んだ。
それが、千切れたザヤグの左腕だと認識するのに数秒かかった。
赤い血の海の中で壁のほうを向いて横たわっているのは、足を鉄の塊に埋めたままのアンティーナだった。
壁を支えることをあきらめたザヤグが、崩れる瞬間に左手でアンティーナの身体を壁の下から押し出したのだ。
彼女は浴びたザヤグの血で顔も身体も真っ赤に染めていた。
ノドの奥まで飛び込んだ血に一度むせた後、アンティーナは叫んだ。
「ザヤ……グ…………っ」
そばには、腰から下を赤く染めたカリリエが、血の海にヒザをついて唖然としていた。
サシェとミサヨも固まったままだ。
壁の向こうでは、ジークヴァルト、カロココ、ラカが泣き叫んでいた。
ヒザをつき、血の海に拳を振り下ろすカロココ。
バシャリと血が跳ねる。
「嘘だ……ザヤグ……このメンバーで最初に死ぬのは、モンクの私だと……思っていたのに……」
「ザヤグ……ッ」
理性を失って叫ぶジークヴァルトとラカ。
ベイルローシュと従騎士たちは声を出すことさえできない。
気がつくと、カリリエがサシェの胸ぐらをつかんでいた。
「なんとかして……なんとかしてよ……サシェっ」
その顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
サシェが顔をゆがませる。
「……俺にも……死んだ人間を生き返らせることは……」
「ああ……あ…………っ」
カリリエが崩れるように床に座りこんだ。
――誓います……必ず生きて帰り、マリィを救います。
ミニブレイク全員が誓った言葉。
全員で、生きて帰る……はずだった……。
うちひしがれたカリリエの服から何か小さなものが落ちて、床に転がった。
……リチャージされたばかりの……最後の呪いの指輪だった。
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