第三章 ウィンダム連邦

第一話 霧雨の帰郷 -前編-



 滑るように空中を移動する飛空艇――。


 巨大な建造物が、ぶ厚い大気の層をかきわけるように進む様は、まるで空飛ぶクジラである。

 V字型の編隊を組んだ渡り鳥の群れが、恐れをなしたように見えないみちを譲る――。




 飛空艇航路はジュナ大公国を基点として四本存在し、極めて正確な時間で往復している。

 朝早くジュナ大公国を出港しウィンダム連邦に向かう飛空艇の甲板の上は、突き抜けるような青い空と、すがすがしい空気に包まれており……順調な空の旅を象徴していた。


 南東を目指す飛空艇の右舷欄干に、少し高くなった朝陽を浴びてたたずむ二人の美しい娘がいた。

 空からの眺めを求めて甲板に出た数人の客は、例外なくそのふたりにしばし視線を止め、この飛空艇に乗り合わせた幸運に感謝するのであった。


 世界中を旅する冒険者でさえ、一生に一度出会えるかどうかの美貌をもつ娘が二人並んで立っている――その奇跡は、見る者にもれなく溜め息をつかせるほどであった。


 ふたりはまるで、どこかの街角で待ち合わせた子どものように笑顔で話をしていたが、しばらく前から会話が途絶えたようだった。




 灰青色の瞳をもつ娘が、きらめくような金髪を軽くかき上げると、黒髪の娘に再び話しかけた。


「あのね、ミサヨ」

「何? カリリエ」


 ミサヨが深く吸い込まれるような黒い瞳を優しく返すと、カリリエは少し躊躇するように問いかけた。


「私も、彼のことを“サシェ”って呼び捨てにしてもいいかな?」


 くすりとミサヨが笑った。


「どうして、私に聞くかな?」

「それは……ミサヨのほうが長い付き合いなわけだし、それに――」


 ジュナ大公国に歌姫として君臨していたときの貫禄は鳴りをひそめ、カリリエはローティーンの少女のように顔を赤くしている。

 ミサヨはカリリエの考えていることが手に取るようにわかったが、その状況を認める心の準備がまだできていなかった。


「付き合いが長いって言っても……たった一日の差しかないよ? 気にしない、気にしない」


 一瞬カリリエは黙ったが、うやむやにする気はないようだった。

 何事もはっきりさせたがる彼女の性格をミサヨは知っているし、そのおかげで助けられたことも多い。


 ……カリリエは、とうとうその言葉を口にした。


「私ね……彼に魅かれているかもしれない」


 カリリエは探るようにまっすぐな瞳をミサヨに向けている。

 ミサヨはごまかせないことを悟った。


 何年でも隠し通すつもりだった言葉を、こんなにも早く口にすることになるとは思っていなかった――。


「私も、サシェのことが好き」


 言った途端、予想外に心が軽くなったことをミサヨは実感した。


 サシェには、いいひとがいるかもしれない。

 ――そんなことばかり考えていた。


 言葉にすれば重い気持ちになると、そう思っていたのに。

 しかも親友と、恋敵こいがたきになったというのに――。


 カリリエが微笑んでいた。

 私はまだそこまで自分の気持ちに自信がないよ――そう言ったカリリエは、また少しの間をあけてから、可笑しくて仕方がないという様子で言葉を続けた。


「タルルタ族を可愛く思うヒューマン族の女はたくさんいても、惚れる女は、ちょっと珍しいよね――私たち、変人かもしれない」

「……言えてる」


 ミサヨは心の底からカリリエと笑いあった。

 そんな気持ちになれたことが不思議だった。


 それから、カリリエはまるで姉になったつもりであるかのように、優しく言った。


「恋愛なんてさ、もっと気楽にすればいいんだよ。明日には、もっとかっこいいレウヴァーン族の男に心を奪われているかも知れないんだし?」


 恋愛経験に乏しいミサヨには実感のわかない言葉であったが、そういうものかもしれないと思わせる勢いがカリリエにはあった。

 サシェに気持ちが傾いたのも、十二年も兄を想い続けていた自分にとっては、あっという間の出来事だったのだから。


 いずれにしても――ここ数日思い詰めていた自分の気持ちを解放してくれた親友に、思わず涙が浮かぶくらいミサヨは感謝した。





  ***





 航路の半分を過ぎた頃、サシェがふたりの元に戻って来た。


 飛空艇が出発してすぐに、サシェはひとりで後部プロペラ台の上に座り、流れる景色をぼおっと眺めていた。

 どこか近寄りがたい雰囲気を感じて、ミサヨとカリリエはあえて声をかけず、離れた欄干で昔話に花を咲かせていたのだ。


 そこへ顔を見せたサシェは、乗客たちのうらやむ視線をよそに、あまり元気がないようだった。


「ふたりに聞きたいことがあるんだけど、今、いいかな?」

「うん」

「何ですか?」


 ミサヨとカリリエは一度視線を合わせた後、キョトンとした表情をサシェに向けた。


 タルルタ族のサシェの身長は彼女たちの半分しかない。

 自然に見おろすことになるが、短期間で深くかかわることになった彼女たちにとって、サシェはたしかに年上の男だった。


「ミサヨには数日で髪が伸びた件を……カリリエさんには“呪いの指輪”をはめることになった状況を……はっきり聞いておいたほうがいいと思って」


 ふたりがサシェに頷き、近くに人影がないことを確認した。


「私から話すね」


 そう言って、ミサヨが髪のことを話し始めた。

 本当はカリリエを紹介したときに話すつもりだったんだけど――という前置きに続く内容はこうだった。




 ベッケルの王室親衛隊に潜入するための入隊試験を受けるとき、ミサヨはショートボブだった髪を刈り上げた。

 だから入隊後にマリィの家で初めてサシェと顔を合わせたときは、たしかに髪を刈り上げた状態だった。


 その後、実は潜入目的だったことがベッケルにバレていて、しかもマリィの家で彼を無様に転ばせたことを恨まれたミサヨは、ドラゴーニュ城の地下でサシェと同時に呪いの指輪をはめることになった。


 そのときは金髪ブロンドでストレートヘアのウィッグをつけていたが、中身は刈り上げた状態のままだった。


 ところが――。


 翌朝目が覚めると、いきなり髪が五十センチも伸びていた。

 しかもぼうぼうに伸びていたわけではなく、まるで誰かがカットしてくれたかのようにきれいに……。


 鏡に映した姿は、冒険者になる前の自分を見るようだった。

 七歳という若さで冒険者の仲間入りをしたミサヨは、それまでのロングヘアを切り、今の髪型――ショートボブに変えたのだ。


 髪が突然伸びたことに彼女は驚いたが、それ以外の異常はなかった。

 その日のうちに知り合いに切ってもらい、今のショートボブに戻したというわけである。




「朝、目が覚めたら、いきなり?」


 サシェの声にミサヨが頷いた。


「そう――信じられないかも知れないけど」

「指輪のせい――なのかな?」


 ミサヨを疑う気など全くないサシェは、その先へ思考を進めていた。


 呪いの指輪で髪が伸びる話など聞いたことがないし、自分の髪はなんともなかった――が、偶然とは思えない。


(いったい、この指輪は……)


「髪質というか、髪の感じはどう? いつもの自分の髪と違う感じはある?」


 ミサヨとカリリエが顔をしかめた。

 サシェは自然に疑問を口にしただけだったが、“他人の髪が生えてきた”という想像は気持ちの良いものではなかった。

 生理的に受け入れがたく、軽い恐怖を誘う。


「――あ、ごめん」

「自分の髪……だと思う……けど」


 答えたミサヨの顔は暗かった。


「こんなにツヤツヤした綺麗な黒髪、ミサヨ自身のに決まってるでしょ」


 怒ったように言うカリリエ。

 ミサヨが伸ばした以前の髪を見たことはなかったが、サシェは思わず同意した。


 たぶん、そうなのだろう――と思う。

 他人の髪なら、偶然に同じようなストレートの黒髪である確率は、それ以外の確率よりはるかに低いはずだ。


「わかった、ありがとう。……カリリエさんの話も聞かせてもらえますか?」


 カリリエの表情が変わった。


「ちょっと待った。その前に――」


 真剣な顔つきで、サシェの方をにらむ。


 そのときである。

 突然、サシェの背後で女の声がした。


「ば、ばれました?」


 思わず背後を振り返るサシェ。

 人の気配――姿は見えないし、音も聞こえないが――たしかに人の気配が、慌てた様子で遠ざかっていった。


 お互いに「さん」付けはやめない? ――そう言いかけていたカリリエが、ぽかんと口を開けていた。



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