第十話 呪いの指輪 -後編-
ミサヨが惚れ薬のいたずらについて明かし、サシェに謝ったとき。
彼は心底ほっとした表情で、おそらく無意識に小さな声をもらした。
――そういうことなら、許してくれるかな……。
その言葉が、ミサヨの意識にひっかかった。
このとき、ミサヨの心の水面は奇妙に揺れたのだ。
最初は、自分に向けての言葉かとミサヨは思った。
ミサヨが登場するセクシャルな夢を見たサシェが、それが薬のせいとは知らず、罪悪感を抱いていたのかもしれない――と。
だがサシェの目は、遠くを見ているようだった。
――誰のことを、気にしていたのか?
自分には関係ないことだと思った――はずだった。
それ以来、無意識にサシェとふたりきりになることを避けていたのだと、自分で気づいたのは今朝だった。
珍しくサシェから
サシェ: 重要な話がある。二時間後に、時計塔が見える広場で会えないか?
本当はミサヨにも、サシェに話すべきことがあった。
カリリエに会わせたかった理由を、まだ話せていない。
ミサヨ: わかった。二時間後に
そう答えて、カリリエに
二時間後にその場所に来てほしいと。
カリリエを呼ぶのは、彼女に会わせたかった理由を説明するためなのだが。
わざわざその理由の正当性を確認している不自然さに、ミサヨ自身が気づいていた。
カリリエはまだ来ていないようだった。
空は青く、風は涼しい。
(……大丈夫)
ポーカーフェイスには自信があるミサヨだった。
母が再婚した父の連れ子だった兄――彼への想いを隠し続けて、もう十二年になる。
素の感情を顔に出さないテクニックはすっかり板についていた。
七歳で冒険者になったミサヨは、結局兄の結婚式には出なかった。
それどころか相手の女性――リタに会ったのは、黒鎧に扮してベッケルとともに家を訪ねたときが初めてだ。
死んだ兄の忘れ形見――マルガレーテに会ってみたかった。
兄にそっくりの栗色の髪とダークブラウンの瞳が可愛かった。
守ってあげたいと思った。
――そのために、サシェと契約したのだ。
「ごめん、突然呼び出して」
頭をぽりぽりと掻きながら、振り向いたサシェがミサヨに声をかけた。
「いいの。私も話したいことがあったしね」
にっこりと微笑むミサヨは、いつも通りのミサヨだった。
***
「これを見てほしい」
サシェがかばんから取り出したのは、今朝、世話係のモーギルから渡されたばかりの手紙だった。
差出人は、飛空艇で旅を共にしたサンドレア王国の騎士、ベイルローシュ。
ミサヨは急いで手紙の文面に目を通した。
読み終わるのを待っていたサシェに、ミサヨが驚きの声を発した。
「ベッケルが――消えた?」
「そう。国王と第一王子がサンドレア王国に戻ったのと同時だったみたいだ」
たしかに手紙にそう書いてある。
「“部下とともに”――ってことは、死んだとかじゃなくて、行方をくらませたわけね」
「地下に潜ったという表現でもいいかもしれない。今もどこかで何かを企んでいる――そんな気がするんだ」
サシェの表情は穏やかだった。
当面の心配事が消えたからだ。
ベッケルの悪事に対する証拠固めが進み、国王帰還と同時に王立騎士団が彼らを検挙しようとしていたらしい。
「たぶん、もう重税どころか、優遇措置を受けられるんじゃないかと思うんだけど。マリィの家の様子を調べてくれるよう、ジークさんたちに頼んでもらえないかな?」
「わかった。今日中には報告が入ると思うわ」
そこでミサヨは、はたと気づいた。
「ちょっと待って……ということは――」
サシェの顔を伺った。
「ジュナ大公国を
「当たり。明日の朝にでも飛空艇に乗ろうと思ってるんだけど、どうかな?」
ニヤリと笑うサシェ。
そこにいきなり口を挟む美女がいた。
「おー、いよいよ出発ですか。急いで準備しなくちゃ」
声の主は、ほがらかな笑顔のカリリエだった。
面食らうサシェ。
「じゅ、準備って……」
「もちろん、私も同行するための――って、ミサヨ、まだ話してくれてないの? もう一週間くらい前に言わなかったっけ?」
驚くサシェとカリリエに見つめられたミサヨは、引きつった笑顔を浮かべた。
「ごめん、今話すわ。サシェ、カリリエに会う前に私が言ったこと、覚えてる?」
「あの美貌とスタイルに加えて――」
そうじゃなくて――と、ミサヨは笑った。
「カリリエを紹介したい理由は、歌を聞かせたかっただけじゃないって、そう言ったよね?」
「思い出した。私たちの目的に関係がある――だ」
ミサヨがカリリエの左手をつかんで、手の甲をサシェの目の前に突き出した。
そのときのサシェの驚きようは、かなり滑稽だったかもしれない。
大げさなほどに後ろにのけぞったからだ。
「お、俺は、今ほど自分が愚かだと思ったことはない。全然、まったく、気づかなかった」
カリリエの左手中指に、“呪いの指輪”がはまっていた。
サシェやミサヨの指輪と同様に、カーバンクルの模様が刻まれている。
「ちょっと待ってくれ。カリリエさんは、あの日、たしかに〈
カリリエの冒険者レベルは、少なくとも72に達しているはずだ。
そしてサシェはカリリエの言葉を思い出した。
――ミサヨは指輪のせいでレベル1に制限されています。
(俺はレベル15制限だというのに……)
「……ミサヨは知っていたんだな。ただの“呪いの指輪”じゃないって」
(そうだ……誘拐事件以来、ずっとミサヨに聞きたかったことだ。なかなか話すきっかけがなかった――)
ミサヨが自分と話すことを避けているのかと、そう思うことさえサシェにはあった。
「うん、ごめん。レベル1じゃ、契約してくれないんじゃないかと思って……足手まといと思われたくなくて――進歩してないよね、私」
サシェは、飛空艇で暴れるシェンを前にして立ち尽くすミサヨの姿を思い出した。
彼女は呪いの指輪のことを、
そのせいで、彼女の火力をアテにする仲間の期待に、応えられなかった――。
(違う)
サシェは覚えている。
――あなたと契約したい。
そう言ったときの、ミサヨの顔――決意に満ちた、輝く表情を。
(ミサヨは隠すつもりなんて、なかったはずだ。少なくとも、あのときまでは――)
ミサヨは「私たちの目的に関係がある」と言って、サシェにカリリエを紹介した。
当然、カリリエが付けた指輪を見せるつもりだったはずであり、そうなればカリリエとミサヨのレベル制限について話が及んだはずである。
(……悪いのは、俺だ)
あのとき、自分が口にした言葉――“契約を破棄する”――それが、どれほど彼女を傷つけたか。
ミサヨの言葉を聞いて、サシェは今さらながらに思い知った。
(これは俺の自惚れとか、そういう問題じゃない)
おまけに誘拐犯を前にして、ミサヨに魔法を期待する言葉をかけていた。
そのときの彼女の気持ちを考えれば――。
(もう謝って済む問題じゃないな、これは……)
しかもミサヨは、自分が悪いと思って謝っているのだ。
彼女に罪悪感を抱かせたままでいて、いいはずがなかった。
「――まったくだ」
あっさりと、サシェはミサヨの非を認めた。
「……俺は、信頼されていなかったってことだ」
ミサヨがショックを受けた顔を上げた。
カリリエの眉がぴくりと反応した――が、今回は黙っていた。
サシェの顔は真剣だった。
「――でもこれで、お互い様だと思っていいかな? ミサヨは許してくれたけど、俺はミサヨに“信頼できない”と言ったことを、今でも悔やんでる」
謝っても許されないと思ったときには、プライドや損得勘定を抜きにして、自分の正直な気持ちを言葉にして伝えるしかない。
それは三十四歳になるサシェにとっても、勇気がいることだ。
「俺は、ミサヨを信頼してる。この先、何があっても」
右手を胸に当て、真っ直ぐに見つめてくるサシェの瞳を見たとき、ミサヨの心の水面は今までにないくらい大きく揺れた。
動揺し、ポーカーフェイスを作るのが一瞬遅れたとミサヨは思った。
……黙って見つめるカリリエの視線が気になった。
そのカリリエが口を挟んだ。
「どうしてそういう恥ずかしい言葉がすらりと出ますか、サシェさんは」
笑いながらサシェの右手を奪い、握手をした。
「まぁそういうわけで、よろしくお願いします。ウイカのことは付き合いの長い老夫婦に任せるつもりだから大丈夫。あの子、もう自分で十分稼げるしね。私も子離れしないと――」
「残念だけど……ウイカちゃん、冒険者になるって、私にこっそり言ってたよ。将来は吟遊詩人になりたいんだって」
ミサヨの言葉にカリリエが驚いた。
「えーっ? 私、聞いてないよ。どうしてそういう大事なことを――」
「私も聞きましたよ。冒険者になれば、カリリエさんといつでも
サシェの言葉に、カリリエが赤くなった。
「もぅ……吟遊詩人は楽器もできないといけないから、大変なんだから……」
ぶつぶつ言うカリリエに、サシェとミサヨが笑った。
カリリエも笑った。
時計塔の向こうに見える空はどこまでも高く、海はどこまでも広かった。
海からやってくる風は時計塔を回りこみ、上層区の広場に潮の香りを運んでいる。
その時計塔と反対側――高級住宅の壁の陰から、広場にいるサシェたちを見つめる視線があった。
ブラッククロークのフードを
赤く縁取られた袖から覗く指には、カーバンクルの模様が刻まれた呪いの指輪がはめられていた。
~ 第二章完、第三章へ続く ~
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