第二話 大切なひと -後編-
暗い雲の下、雨が降り続けているラテーネ高原。
霊獣カーバンクルに会える場所は、すぐそこのはずだった。
高原のヌシである巨大な神羊族と遭遇したのは、運が悪かったとしか言いようがない。
……そう思っていた。
うっすらと目を開けたミサヨの視線の先に、青く鈍い光が見える。
目の焦点を合わせると、それが自分の左手にはまった呪いの指輪であることがわかった。
指輪が不安定に揺れる青い光を発している。
その光る指輪が、ノートリアス・モンスターを引きつけたのだ。
……なぜかそう直感した。
(私、助かったの?)
意識がはっきりしてくると、足が地面についていないことに気づいた。
目の前には、岩の壁。
はるか下のほうでは、白い霧が渦巻いている。
そこは飛び降りた崖の途中だった。
右手首が痛い――。
「こっちの手首を握ってくれ。もう握力が限界だ」
聞きなれたタルルタ族の声。
見上げると、サシェがミサヨの右手首をつかんでいた。
もう一方の手は、崖から張りだした古い樹の根を握っている。
サシェの頭上に崖の端が見えた。
たいして落ちてはいなかったのだとわかる。
ミサヨは慌ててサシェの右手首をつかんだ。
そして気づく――雨ですべる手首を握るには、想像以上の力が必要だということに。
サシェの苦しそうな表情に息を呑んだ。
ミサヨと自分の体重を左手一本で支えていたサシェは、すでに限界だった。
「なんて無茶をするのよ……サシェひとりなら、とっくに助かって――」
「ごめん……せっかく飛び込んだのに……ここまでみたいだ」
一度は死を覚悟したミサヨが、サシェの手を振りほどこうとする。
その前に、サシェが樹の根を離した。
ふたりで落下する――タルルタ族の力の限界だった。
わかっていたことだ。
これが屈強なレウヴァーン族なら、片手でミサヨを抱き上げ、崖の上に持ち上げることもできただろう――そんな悔しさを感じているサシェ。
だがミサヨは、ひとりで崖を飛び降りたときよりもずっと安らかな気持ちで、再び死を覚悟し、一瞬目を閉じた――。
「あきらめるなっ」
その声に再びミサヨが目を開けると、目の前で同時に落下しているサシェは、信じられない行動をしていた。
落下しながら、魔法の詠唱を始めたのだ。
その短い詠唱は――〈
レベル15に制限されているはずのサシェが唱えても、けして発動しないはずの黒魔法。
レベル40で覚える移動魔法だ。
パーティメンバーのひとりを、あらかじめ設定されたホームポイントに一瞬で移動させることができる。
多人数を移動できる白魔法〈
だから〈
そしてミサヨは気づいた。
サシェの左手中指が失われていることに。
そこから真っ赤な血が噴き出している。
詠唱中の右手には、ポイズンダガーが握られていた。
かつてアンティーナが、サシェの命を奪おうとしたダガーである。
サシェは自分で自分の中指を、呪いの指輪ごと切り落としたのだ。
やがて〈
泣き叫ぶミサヨ。
必死に手を伸ばしても、サシェには届かない。
最後にミサヨが見たのは……満足げなサシェの笑顔だった。
〈
***
〈
魔法は対象者自身に対して発動し、移動先はホームポイントやテレポイントと呼ばれる特定の場所となる。
そのため対象者が走り回っていても魔法は発動するし、移動先では静止した状態で出現することがわかっている。
だからミサヨは、サシェと一緒に落下しながら徐々に異空間に消えた。
そしてホームポイントに出現した途端、いきなり地面に叩きつけられるようなこともなかった。
ただ、そっと――。
そこに姿を現したミサヨは……。
呪いの指輪によるレベル制限を受けて〈
そこは、街で生活する人々が、大勢通り過ぎる賑やかな場所。
長身で派手なペアルックのレウヴァーン族の男女がつまずきそうになり、笑い声を止めて慌てて避けたのは、石畳にうずくまったままの娘。
こんな場所で迷惑だという冷めた視線を向けられたことにさえ気づかない娘。
――それがミサヨだった。
ついさっきまでの、雷雨の中で命をかけた時間がまるで別世界のように、昼下がりの平和な街は爽やかな秋の陽射しに包まれている。
その場所で、ミサヨは下を向いてうずくまったままだった。
閉じた両目からは大粒の涙が流れ続け、
心の中では、まだ雷雨が吹き荒れていた。
「サシェ……サシェ……」
命を懸けて守りたかった人。
その人が……私を助けるために、指を切り……命まで捨てた……。
迫ってきたランドルフを谷底に引き込むために後ろに跳んだそのときには、もうわかっていた……。
ただ好きになった相手というだけじゃない……。
いつの間にか……。
けして……。
失いたくない人になっていた。
心が落ち着きそうになると再びサシェの顔が浮かび、また涙が出た。
シェンを前に何もできなかった私に、“あとは、任せろ”と言ってくれた人。
レウヴァーン族の誘拐犯につかまった私に、生き残るためのサイレンスオイルを投げてくれた人。
真っ暗な部屋の中で、こっそり泣いていた人。
最後に――私にだけ〈
激しく乱れた心を自分でもどうしようもない。
目が熱くて、涙が止まらない。
***
ふと何かに気づいて、ミサヨは顔を上げた。
目の前に立っているのは、通りがかりの一般市民ではなかった。
雑踏の中で、ミサヨを暖かく見つめる四人の冒険者は――。
「珍しく泣いてるん? しっかりしぃや、リーダー」
「その……ア……えとッ、泣かないでくれヨ、何があったンだ?」
「ジ~ク、あんたが泣きそうな顔してどうすんの?」
聞きなれた声。
ニヤリと笑っているのはミラス族の女、ラカ。
心配げな顔をしているヒューマン族の男は、ジークヴァルト。
いつもクールなタルルタ族の女は、カロココ。
そして無口なガドカ族の男、ザヤグ――は、魔法を詠唱している。
一緒に数々の冒険を重ねてきた旧知の仲間たち。
もう、ずいぶん長い間、声を聞いていなかった気がするミサヨ。
四人は皆、ダークグリーンのパールをつけていた。
それはミサヨがリーダーを務める
ミサヨは、状況を理解できないでいた。
「どうして、ここに……?」
「跳ぶぞ」
長い長い詠唱を終えたガドカ族の低い声が、ミサヨの声を遮った。
ミサヨと四人の冒険者の身体が、ゆっくりと白い光に包まれる。
「ミサヨの居場所が、ラテーネ高原から急にサンドレア王国に移動したからサ。たぶン、ホームポイントにしていたココに〈
若い戦士のジークヴァルトがタネを明かした。
リンクスパールをつけていれば、メンバーのおおよその居場所がわかるのだ。
ミサヨはダークグリーンのパールの指輪を今は外している。
だが一時間ほど前には付けていて、ラテーネ高原でショコルに乗りながらリンクスシェル会話をしていたのを思い出した。
たった一時間以内にサンドレア王国に戻る手段があるとすれば、〈
(そうだ……リンクスシェル会話で相談していた。じゃあ、この〈
白魔法〈
高レベル白魔道士のザヤグが唱えた〈
正確には、ラテーネ高原にそびえる巨大なラホの岩の元へ。
ミサヨは何から説明していいのかわからないまま、ただその身が震えるのを感じた。
たった数十分前に起こった現実が、再び実感として全身を包んだのだ。
カリリエ: ミサヨ、戻ったんだね。どうなったの? どうして急に、ミサヨだけサンドレア王国に?
カリリエからの
カリリエはミサヨに
このとき、ミサヨはようやく自分がミニブレイクのリンクスパールが付いたチョーカーを失くしていることに気づいた。
崖から落ちたときに外れてしまったのだろう。
リンクスシェル会話ができなくて、カリリエは
ミサヨ: ごめん、カリリエ。あのね――
ミサヨが言葉を探しているうちに、カリリエが話を続けた。
カリリエ: 良かったミサヨ、無事だったんだね。パールの反応がなかったから、心配したよ
パールが付いたチョーカーは、持ち主であるミサヨの手を離れたまま谷底だろう。
カリリエ: サシェは、パールの反応はあるのに返事がないしさ
ミサヨ: …………
カリリエの言葉に違和感を覚えるミサヨ。
パールの反応があるのは、サシェがパールをつけたままだから。
でも死んだのなら、死んだこともパールを通じて感じられるはず。
それなのに返事がないことを不思議がっているのは――。
ミサヨの頭の奥で、何かがはじけた。
(まだ……生きてるんだ……)
理由はわからないが、そんなことはどうでもいい。
ミサヨは、サシェが右手に握っていたポイズンダガーのことを思い出した。
以前、アンティーナが塗った柄の部分の特殊な毒は、完全に取り除いたと言っていた。
でもサシェは、指を切り落としたときにポイズンダガーの刃から毒を受けているはずだ。
今このときも、毒は徐々にサシェの身体を
「急いで、サシェを捜さなくちゃ……」
慌てて
谷底に降りていける場所が、どこかにあったはず……。
崖にサシェとぶら下がっていたとき、谷底に白い霧が渦巻いていたことも思い出した。
谷底の視界はほとんどゼロだろう。
状況は絶望的かも知れない。
それでも――。
ミサヨの瞳に光が戻った。
(必ず見つける……絶対にあきらめないから)
七人の冒険者によるサシェの捜索が始まった。
雷は遠ざかっていったようだが、大雨が止む様子はまだなかった。
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