第三話 罠への誘い -前編-
サンドレア王国の南区から北区に抜ける場所に建造された巨大な凱旋門。
その近くの木陰に立ち、サシェは遠くの常設市場をぼんやりと眺めている。
薄曇りの空はどんよりと黒ずみはじめ、サシェの心のどこかをせかしていた。
夕立が来る――その予感が、街を歩く人々を早足にさせているように思える。
サシェは今朝からのことを思い返していた。
***
冒険者用の宿でいつもより遅く目覚めたサシェに、世話係のモーギルが手紙を渡した。
「今朝早く、ご主人様に手紙が届いたプコ」
世話好きなこの小型生物は頭の左右に巻き角を持ち、背中にあるコウモリのような翼をはばたかせて、ふわふわと部屋を移動する。
掃除やベッドメイクを仕事とし、太古から人間と暮らしを共にしてきた人なつっこい獣人だ。
モーギルから受け取ったきらびやかな封筒には、王室の豪華な装飾模様の蝋印がしっかりと押されていた。
表には“召喚状”と書かれている。
手紙の内容は、いたって簡単だった。
===
サシェ殿
本日、日没前にドラゴーニュ城に来られたし。
国務代行代理 ベッケル
===
北地区にそびえる王城をドラゴーニュ城という。
ベッケルという黒鎧の騎士が、本当に国王に匹敵する権限を今現在有していることをサシェは知った。
サシェにとって、サンドレア王国は冒険の重要な活動拠点のひとつである。
逆らうわけにはいかなかった。
この日、サシェは午前中にリタ家を訪ねた。
三日前に、手足が炭化する少女マルガレーテと出会った家だ。
目的は二つ。
ひとつは、炭化を食い止めている白絹の衣の入手経緯を知ること。
これは、リタからの依頼が“白絹の衣に代わるアイテムの入手”だったので、彼女のほうから衣の入手経緯について語ってくれた。
三年前に街を訪れた、普段見かけないヒューマン族の旅商人から購入したという。
「妖艶な雰囲気の女商人でした。ほうぼうから借金をしてかき集めた大金と引き換えに、私は白く輝く白絹の衣を手に入れたのです」
その女商人は、薄暗いテントに訪れたリタの目を見つめ、こうつぶやいたという。
――闇に身体を喰われた者は、ディアボロスの夢の世界デュナミスで、心だけが永遠に生き続ける。
「それがマリィの死を暗示しているように思えて……恐ろしくなった私は手に入れた白絹の衣を抱きしめ、家まで走って帰ったことを覚えています」
サシェはリタを安心させるように微笑んだ。
「それは、霊獣ディアボロスが残したとされる有名な言葉ですよ。闇取引に手を染めた商人の一部では、“その言葉を聞いて通じなければまともな客、そうでなければ同業者か
その商人は名乗りさえしなかったという。
サシェは、流通ルートから製作者にたどり着くことを早々に諦めた。
もうひとつの目的は、白絹の衣に
これについてはリタも知らなかったので、正確にはわからなかった。
サシェはポケットから取り出した一本の輝くような白い絹糸と、マルガレーテの着ている白絹の衣を長時間見比べた後、リタに語りかけた。
「これは三日前に白絹の衣からほつれた糸です。三日前の輝きを維持するこの糸と比べても、白絹の衣が放つ輝くような白さは全く衰えていません」
リタが頷いた。
「そうですね、三日くらいでは……。この衣を購入したのが、ちょうど三年前――マリィが七歳の時です。毎日見ているので日々の変化はわかりませんが、購入当時は今よりもずっと――本当に光を放つような白さだったと記憶しています」
本来の絹の色に戻ったときは、衣の魔力が失われたときだ。
そのことはリタも直感でわかっているのだろう。顔に不安の色を浮かべた。
出来上がったばかりの聖なる絹布の白さを、サシェも見たことがあった。
(色の変化から
それがわかっただけでも大きな収穫だった。
午後にはマルガレーテの幼なじみ、アイルナーシュ少年を訪ねた。
ただ遊びに来たように釣りの話題などで盛り上がったが、真の目的は別にあった。
現在、サシェが抱えている最も重要な依頼――“マリィを冒険ができる身体にすること”。その期限を確認するためだ。
「ところでアイルの誕生日って、そろそろだっけ?」
少年の目がキラリと光った。
「何? 何かくれるの? 今日、実は今日が誕生日。ぼくさ、新しい釣り竿が欲しいんだよね」
サシェが笑った。
「へえ、それは残念。もう少ししたら大金が入って、いい竿を買ってあげられたのにな。今日じゃ間に合わない」
少年が慌てて訂正した。
「じょ、冗談だってば。ホントは二ヵ月後。十二歳になるんだぜ。大人用の超高級釣り竿でよろしく」
「了解」
大金が入るというのは嘘だったが、ハルシオンロッドをプレゼントして驚かせてやろうとサシェは決めた。
錬金術合成で作れる高級釣り竿で、自分の銘を入れるつもりだ。
マルガレーテは、アイルナーシュが十三歳で冒険者になると言っていた。
そして自分も冒険者になり、一緒に世界を回りたいと。
つまり、依頼の期限はアイルが十三歳になる誕生日であり、それは一年二か月後ということになる。
(一年だ。遅くても一年で、メドをつけよう)
少年の元気な声を聞きながら、サシェは自分の決意を確かめていた。
***
ぽつりぽつりと雨粒が顔に当たったかと思うと、一気に大雨に変わった。
(おっと、ぼんやりしていたな)
サシェが慌てて雨避けのために凱旋門の下に駆けだそうとした時のことだ。
横から傘を差し出す人物がいた。
「失礼ですが、ドラゴーニュ城がどこにあるか、ご存知ありませんか?」
傘をかざし、タルルタ族のサシェの目線まで腰を落として語りかけてきたのは、ヒューマン族の娘だった。
レウヴァーン族が八十パーセントを占めるといわれるサンドレア王国で、最近はよくヒューマン族に会うものだとサシェは思った。
その娘と視線が合った時、サシェの呼吸が本当に一瞬止まった。
“息を呑む美しさ”という言葉の意味を、生まれて初めて実感する。
とても綺麗な娘だった。
年の頃は十八、九といったところ。
端正な顔にどこかあどけなさを残し、腕と腰が締まったフリル付きのワンピースがスリムな体型を示している。
美女と表現するには、細身すぎて色気が足りないかもしれない。
だがその清楚で可憐な印象は、触れると壊れるのではないかと思えるほどだ。
清潔感のあるストレートの長い
「…………」
(……何だろう。何か、違和感がある……)
「あの、お忙しいようですね。ごめんなさい」
黙ったままのサシェを見て、娘が頬を赤く染めて去ろうとした。
「あ……いえ、すみません。ドラゴーニュ城なら、これから向かうところですのでご案内しましょう。ええと、私には傘は不要ですので」
そう言うと、サシェはかばんからブラッククロークを取り出して頭からかぶるように羽織り、彼女の前を歩いた。
歩きながら、違和感の正体は何だろうと考える。
小柄なタルルタ族の足は短いが、その動きは速い。
サシェは距離が開きすぎないよう時々うしろを振り返ったが、ついてくる娘は、どう見てもただのヒューマン族だった。
凱旋門の長いトンネルを抜けると、すぐに立派なドラゴーニュ城が視界に入る。
サシェがそれを指さして見せると、娘はそのまま後をついてきた。
ドラゴーニュ城にたどり着き、番兵たちに“召喚状”を見せるサシェ。
その時、彼は気づいた。
後から来た娘が、平気な顔で番兵たちの前を素通りすることに。
そんな娘を、番兵たちが警戒していないことに。
そこでサシェは、ようやく違和感の正体に思い至った。
傘をかざされた時、サシェは常設市場のほうを眺めていた。
もし娘が常設市場のほうから来たのであれば、ぼんやりしていたとはいえ気づかないはずがない。
彼女は、凱旋門を通って来たのだ。
(おそらく、ドラゴーニュ城のほうから……)
「さあ、参りましょう」
美しい娘はにっこりと微笑み、今度は彼女が前を歩き始める。
サシェの警戒心が一気に高まった。
まるで、魔物の巣に飛び込む瞬間のように。
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