カーバンクル・カース

笹谷周平

第一章 サンドレア王国

第一話 白絹の少女 -前編-



(間に合わなかった――)


 血の気が引いた。

 黒魔法〈麻痺スタン〉の短い詠唱を終えたタルルタ族の冒険者サシェは、自らが〈麻痺スタン〉を受けたかのようにその場に固まっていた。


 彼の小さな鼻の上にのせられた小さな眼鏡が、わずかに傾く。


 小窓から西日が細く差し込む埃っぽい部屋の中で、数歩先には〈麻痺スタン〉を受けて蝋人形のように固まった黒鎧の男。


 その傍らには粗末なベッドがあり、その上には横たわる幼い少女。


 彼女の小さな胸の上には男が握る片手剣が垂直に突き立てられ、夕陽を反射していた。






 話は三十分ほど前にさかのぼる。

 残暑厳しい初秋の夕刻、ストレートの銀髪を首の後ろで短くまとめたサシェは、オレンジ色に染まる石畳の上を急ぎ足で歩いていた。


 風通しの悪いロンフォートの森を抜け、さらに風を遮る高い城壁に囲まれたサンドレア王国に戻ったばかりだ。

 噴き出す汗はとどまることを知らず、サシェは早く涼しい地下の宿に潜り込みたかった。


 小柄な体躯と幼い顔立ちが特徴のタルルタ族は、サンドレア王国民の八十パーセントを占める長身のレウヴァーン族から見るとまるで幼児である。

 暑さの中を元気に駆け回りサシェとすれ違う子どもたちでさえ、その背丈は彼の三割増しだ。


 この世に生を受けてすでに三十四年を過ぎた彼だが、単一種族が支配するこの国では特に、子どもに間違えられることが多い。

 半年前に訪れたばかりのときは、まさにそうだった。




「こんにちは、サシェさん。あれから、主人が私の軟膏を忘れることがなくなりましたわ」


 通り過ぎようとしていた常設市場の前で、買い物帰りの主婦が気さくに声をかけてきた。

 かつてサシェは、魔物がうろつく危険なロンフォートの森の警備兵である彼女の夫に、手作り軟膏を届けたことがある。




 実はサシェは、この国の庶民にすっかり慕われている。

 滞在を始めて以来、わずかな報酬で危険な依頼を次々と引き受け、そのすべてを成功させてきた成果だ。


 どこの国でも冒険者という職は、庶民からは便利屋とかなんでも屋と認識されている。

 それは日々の生活費を稼ぐためであり、情報収集のチャンスであり、流れ者が新しい土地に早くなじむための手段ではあるのだが――サシェはすっかり良い意味での有名人になっていた。




「サシェ」


 足が止まった。呼び止めた声が危機感に満ちていたからだ。

 サシェが振り返ると、レウヴァーン族の少年が息を切らせていた。


「どうした、アイル?」


「ちょうど良かった。一緒に来て」





  ***





 民家の玄関前に、見慣れない黒鎧を装備した人物が直立していた。


 レウヴァーン族にしてはかなり背が低く、フェイスガードのわきから見える耳が尖っていないことから、どうやらヒューマン族のようだとサシェは気づいた。

 ヒューマン族はサンドレア王国では珍しいが、一般的にどこの国でもよく見かける種族である。


 サシェがしげしげと見つめても黒鎧の人物は微動だにせず、通りの遠方を見据えていた。




 家の中から声が聞こえた。


「……ですから、もう少しだけお待ちください」


 女性の声だ。同時に、アイル少年があせった様子でサシェの服を引いた。

 彼は玄関先の黒鎧のことは気にしていないようだ。


「入って大丈夫だから、マリィを助けて」




 家の中に踏み込むと廊下の左右に部屋があり、目的の部屋は左だとすぐにわかった。

 耳の尖った長身の黒鎧たちが、廊下まで溢れていたからだ――五、六人はいる。


「いいか、何度も言うように、俺様の言うことはピエージュ様の言葉だと思え」


 口ひげをたくわえた中年のレウヴァーン族が、やはり黒鎧を着てこの家の主婦らしき女性に、紋章入りの小さな銀プレートを見せつけていた。


 背を向けた彼の視界には、入口に顔を見せたサシェたちの姿は入っていない。

 他の黒鎧たちも関心を示すことはなかった。


 ピエージュ様といえば、この国で知らぬ者はいない第二王子の名である。


 国王と第一王子は隣国のバスクート共和国に長期滞在中であり、現在はピエージュ王子が国政を代行しているという。

 ピエージュ王子は国民の人気を第一王子と二分する良識ある人物だと聞いていた。


「税金は必ずお支払いします。でもどうして、うちだけが今月から五倍なのですか?」


 婦人の髪はほつれ、顔色は悪い。

 状況をつかめず、サシェはアイルを振り返った。


「マリィは、幼なじみなんだ」


 ずいぶん歳の差がある幼なじみだなとサシェは思ったが、少年は別の場所を見つめていた。


 婦人のわきの粗末なベッドに、その少女はいた。


 白いシーツに埋まるように横たわっていて、サシェの低い目線からは汚れた包帯に包まれた右腕と、栗色の髪しか見えない。


「貴様、いったい何か月税金を滞納していると思っている? すぐに払えないなら国から出て行け。貴様の家はこのベッケル様が没収してやるから、安心するがいい」


 首を左右に振る婦人。

 サシェは、彼女がヒューマン族であることに気づいた。


「ご覧の通り、娘のマルガレーテは病気なのです。毎日高額の薬代がかかる難病です。どうか、今しばらくのご猶予を……」


 サシェにもだいたいの事情は見えてきた。

 だが、納税はサンドレア王国民の義務であり、異国民の彼が口をはさめるようなことではない。


 ベッケルという男が見せた銀の小さなプレートは、淡く赤色と金色に光を反射していて本物に間違いなかった――特殊な彫金術合成で作られた王室親衛隊の身分証だ。


「……ああ、聞いているぞ。つまりこの娘さえ――」


 ベッケルの目が妖しく光った。

 その瞬間、サシェの身体は考えるより先に動いていた。


 その異様な気配は、街の外でいきなり魔物に背後から襲われたときのようにサシェの神経を不快にした。


「――この娘さえいなければ、毎月きっちり税金を払えるというわけだっ」


 ベッケルの動きは鍛えられた騎士のものであり、けして遅くはなかった。

 腰から引き抜かれた片手剣は滑らかに宙でひるがえり、真っ直ぐに少女の胸に向けて落とされたのだ。






 サシェが唱えた〈麻痺スタン〉の呪文――生物の筋肉を一瞬硬直させる黒魔法――が発動したときには、剣の切っ先が少女の胸に達していた。


(間に合わなかった――)


 〈麻痺スタン〉の効果時間は、ほんの一、二秒。

 解けると同時にベッドの上が真っ赤に染まる――はずだった。




 ベッケルともうひとりの黒鎧が床に倒れこんだ。


「ええい、邪魔をするな、新米が」


 ベッケルは立ち上がって、たった今倒れ込むようにぶつかってきた黒鎧が触れた部分を、まるでゴミでもついたかのように手で払っている。


「は。も、申し訳ございません。慌てて、痛んだ床につまずきました」


 若い女の声だった。

 小柄で耳が尖っていない――玄関先にいたヒューマン族の黒鎧が、いきなり部屋に飛び込んできたのだ。

 髪を刈り上げたその外見から、女だとは気づいていなかったサシェ。


 ともかく、少女の胸に深く突き刺さっていたはずの片手剣は、その目的を達することなく、それたのだった。




 呆然とするサシェの前で、黒鎧の女が思い出したようにベッケルに耳打ちをすると、ベッケルの様子が変わった。


「やつらが来たのか」


 彼は他の黒鎧たちに引き上げる合図をした。


 去り際にジロリとサシェを見おろしたその顔には、いやらしい笑みが浮かんでいた。


「タルルタ族――貴様がサシェだな。噂は聞いている。近いうちに使ってやろうと思っていたが……今日のことは後悔することになる、すぐにな」


 サシェは何も言わなかった。

 まだ何もわからない。


 たしかなことは、この国で不穏な何かが起きているということだった。






「マリィ、大丈夫?」


 少年が、婦人とともにベッドの少女を覗きこんでいた。


「サシェ、早く〈治癒キュア〉をかけてよ。少し血が出てる」


 彼はあせった様子でサシェを呼んだ。





  ***





 婦人に自己紹介を済ませた後、丸椅子の上に立ったサシェがベッドに横たわる少女を見おろした。


 十歳前後であろうか。

 あどけない顔のヒューマン族少女は、シーツから包帯に包まれた右腕だけを出している。


 髪よりも少し濃いダークブラウンの無垢な瞳がサシェを見つめた。

 その表情に痛みを感じている様子はない。


「大丈夫、マリィ? すぐにサシェが〈治癒キュア〉で治してくれるからね」


 少年が心配そうに少女を覗きこんだ。

 少女が無言のまま少し微笑むと、小さな口に少しだけ白い歯が見えた。


 先ほどベッケルが突き立てた剣の切っ先が触れたあたりに、布の切れ目と小さく広がる赤い染みが残されていた。

 だが、それ以上に染みが広がる気配はない。


「〈治癒キュア〉は必要ありません。これくらいのケガはすぐに……」


 婦人はそう言いながら、一瞬ためらった後、少女にかけられたシーツを取ってみせた。

 少女がサシェと少年から顔をそむけた。


「これは……」


 サシェが言葉を詰まらせ、ずれた眼鏡をかけなおす。

 少年も初めて見たらしく、言葉を失っていた。



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