第六話 伝える言葉 -後編-



 第二診察室は狭い部屋だった。

 面接用の机が大きめなことと、あちこちに花や小物が置かれているところがカウンセリング専用の部屋なのかもしれないと思わせた。

 すりガラス越しの秋の陽光が優しい。


 机を挟んでサシェとカリリエが向かい合わせに座り、カリリエの左側に少し下がってミサヨが座った。


「書いてみて、どうでしたか?」


 カリリエは落ち着いていた。


「……自分にとって、とても大きな問題だったんだと思いました。でも、それだけです。これでいいんでしょうか?」

「問題ありません。次のステップに移ってもいいですか?」


 カリリエが頷いた。

 横で見ていたミサヨは、カリリエのサシェに対する態度が、今朝までと全然違っていることに驚いた。


 自分がいない間にふたりの間に何があったのか知りたかったが、口には出さなかった。

 たった今、とても大切な時間が流れていると直感したからだ。


 サシェが再び羊皮紙を取り出した。今回は一枚だけだった。


「今度は、羊皮紙の真ん中に横線を引いて――上段にはその人に感謝できること、下段には謝りたいことを書きます」


「…………」


 横線を引いたところで、カリリエの手が止まった。


「何かありますか? 気持ちがついて来なくても、理性で考えてみてください」


 サシェが促すと、カリリエが答えた。


「そうですね……孤児だった私を拾って育ててくれたことです。ただこき使いたかっただけかもしれませんけど……知人の学者さんのところに勉強に通わせてくれましたし……」

「他にもありますか?」


 カリリエは少し考え込んだ。


「十二歳のときに冒険者になると言って家を飛び出しました。そのとき、子どもの私には大きすぎるような……立派な盾をくれました。そのときは店の売れ残りを押し付けたんだと思いましたが……今思えば、店先に並んでいるのを見たことがないものでした」

「他にはどうですか?」


 カリリエはまた少し考えた。


「……それくらいでしょうか」

「わかりました。では、それを上段に書いてください」


 カリリエが書き終わると、サシェは変わらないペースで続けた。


「では、次に謝りたいことはありませんか?」


 もし前もって嫌だったことを散々書いていなかったら、嫌なことばかり先に浮かんできたかもしれない。

 だがそれを書き尽くしていたカリリエは、気持ちは伴わないまでも言葉は出てきた。


「ずっと、反発してきたことでしょうね……。私が家を出た直後に、彼は商売をやめて冒険者になったと聞いています。だから、離れていても念話テルで会話しようと思えばできたのですが……家を出て以来、念話テルどころか手紙さえ書いたことがありません」


 念話テルとは冒険者の間だけでなしえる会話法で、心の声を遠く離れた相手に伝えることができる。

 少し間を置いてカリリエが言葉を足した。


「……それくらいですね」

「わかりました」


 今度はそれを羊皮紙の下段に書いてもらい、サシェは少し間を置いた。

 カリリエがサシェの目を見つめて、次の言葉を待っている。


 ミサヨは何かを考え込むように、うつむいていた。


「次のステップは、最も重要なステップになります。これは、カリリエさんにとって今までにないような勇気を必要とすることです。先ほど、私に見せてくださった勇気よりもずっと大きな勇気が必要です」

「……何をすればいいでしょうか? ウイカのためと信じて、なんでもします」


 サシェが答えた。


「本来なら手紙でもよいのですが、幸運にもお互い冒険者の経験があるとのこと――」


 カリリエは覚悟を決めた顔をしている。


「その人に念話テルをして、今紙に書いた感謝と謝罪の言葉を伝えてください。気持ちが入っていなくてもかまいません。ただ伝えて、すぐに念話テルを終わってもかまいません」


 カリリエが椅子の上で固まった。


「――それはっ……たしかに、とても勇気がいることですね……」


 さすがに、すぐにやるとは言えないカリリエ。

 サシェも、せかすようなことはしなかった。


「私には、無理にとは言えません。やるかどうかは、ご自分で決めてください。いったんこの話は終わりにして、念話テルしたのであればご連絡いただくということにしても――」


 カリリエが首を横に振った。


「いいえ、今からします」


 カリリエにとって、気持ちが入っていなくてもよいという点が救いだった。

 ただ書いたことを伝えればいい。

 それに時間がたつほど、できなくなるような気がする。

 そして何よりも、ウイカのためになんでもすると決めたばかりなのだ。


 目をつむるカリリエ。念話テルに集中するためである。

 サシェとミサヨは静かに待っていた。

 念話テルの内容は周囲には聞こえない。


 ミサヨは、カリリエと同じくらい緊張しているように見えた。


 カリリエの念話テルが始まった。




 カリリエ: ……ザヤグ……私だけど




 相手の返事を待つ間、カリリエの緊張は激しく高まった。

 七年も連絡を取っていなかったのだから、あたり前である。

 しかも十年もの間、許せないという思いを抱いてきた相手への念話テルなのだから――。




 ザヤグ: ……カリリエか……珍しいな。相手を間違えたのか?




 七年ぶりの声に、カリリエの頭は一瞬真っ白になった。

 ずっと冷たく接してきた父親代わりの男に、感謝と謝罪の言葉を伝えなければならない。


 ウイカを想う気持ちだけが心の支えだった。

 自分でも何を言っているのかわからなくなりながら、カリリエは話をした。




 カリリエ: その……今まで言ったことなかったんだけど、一度くらい言っておいたほうがいいかなと思って……。ザヤグはさ、慣れない商売をしながら孤児だった私を育ててくれたでしょう? いろいろ苦労もあったと思うのに……ありがたいなって思って……勉強も受けさせてくれたし……すごくためになったと思うの。あ、あと、私が家を出たとき、立派な盾をプレゼントしてくれたでしょう? 私、全然いい娘じゃなかったのに……びっくりした。それから、私、ずっとザヤグに反発してて……可愛くない娘だったよね……悪かったなって思って……それだけ言っておきたくて、じゃあね。




 いきなり念話テルを切ったカリリエ。

 胸がドキドキして、返事を待っていられなかった。


(ザヤグは変に思っただろうな。早口だったから、私の言葉を聞き取れなかったかも――)




 ふいに、カリリエの左手を誰かがつかんだ。


 ――ミサヨだった。


 カリリエの左手をつかんだまま、うつむいたミサヨが涙を流して震えていた。


 どうしたの?――とカリリエが聞く前に、ミサヨが自分の指からダークグリーンのパールが付いた指輪を外して、そっとカリリエの指につけた。

 すぐにリンクスシェル会話がカリリエの頭に流れ込んできた。




 ジークヴァルト: お、おいザヤグ、どうしたンだよッ?


 カロココ: うわっ、ザヤグが泣いてるよ、雪が降るよ、モーギルが降るよっ


 ラカ・マイノーム: ザヤグ、どないしたん?


 ザヤグ: うっ……う……う…………




 カリリエは、すぐには信じられなかった。

 あの厳しくて融通の聞かないザヤグが泣くなんて、想像すらしたことがなかった。

 いつだって岩のように大きく、誰よりも強い男だった。


(あのザヤグが……ずっと許せないと思っていたザヤグが……私の形ばかりの言葉を聞いて、泣いているだなんて――)


 気がつくと、カリリエの頬にも涙が伝っていた。




 ザヤグ: 俺は……いい父親じゃなかった……すまなかった……


 ラカ・マイノーム: ちょっと、ザヤグ、何言うてんのん?


 ジークヴァルト: げ……ザヤグ、子どもがいたのかッ?


 カロココ: ほら、ザヤグ、元気出して




 カリリエは思った。

 苦しんでいたのは自分だけじゃなかったのだと。


(ザヤグもずっと苦しんでいた……私が気づかなかっただけで……)




 カリリエ: ごめん……ね、お……父さん……




 リンクスシェル会話のまま、自然に言葉が出た。

 小さい頃は、ずっと“お父さん”と呼んでいた。

 それを聞いてザヤグはいつも嬉しそうだったことを、カリリエは思い出した。


 背を向けて立ったまま、こっそりリンクスシェル会話を聞いていたサシェの目にも涙が浮かんでいた。





  ***





「サシェさん、ありがとうございます。ウイカのことを相談にきて、こんなことになるなんて……」


 カリリエが照れながら礼を言った。


「でも、結局、ウイカのことはどうなったんでしょう?」


 サシェは落ち着いていた。

 カリリエが勇気を持って行動したことで、すべてのステップが完了したからだ。


「カリリエさんは言いましたよね。ウイカさんのためを思って言っていることを、ウイカさんが聞かなくなってきた。何か嫌なことがあったらしい日も、何も話してくれなくなった。意思の疎通を拒まれていると感じることが多くなってきて、それがつらい――と」

「はい」


 ミサヨが何かに気づいた顔をしたが、カリリエからは見えなかった。


「――それが誰の気持ちか、今のカリリエさんならわかると思います」

「誰のって、私の……あ、いえ、そうか――ザヤグの気持ちだ」


 カリリエの目に再び涙がにじんだ。


(私がたった一か月でこんなに苦しんでいたことを……ザヤグは十年間も、ずっと……)


「どうしたら……私は、ウイカにどう接したらいいんでしょうか?」


 サシェはその答えを持っていない。

 その答えはカリリエ自身の中にある。

 そこにたどり着くために、これまでのステップが必要だった。


「カリリエさんは子どもの頃、どんな気持ちでしたか? ザヤグさんにどう接して欲しかったんでしょうね?」


「私は……認めて欲しかった。ザヤグに、もっと信頼して欲しかった……そうか……ウイカ……私……」


 ウイカはステージデビューの歌を、別のキーで始めたいと言った。

 彼女はそのほうがふたりのステージが良くなると、自分で一生懸命考えて言ったに違いない。


(それを私は、よく考えもしないで、今まで通りが一番いいんだと言い聞かせた。ウイカが違うキーで歌い、あれだけの拍手と喝采を受けたあとでさえ、私は……ウイカを認めようとしなかった……)


 そのときに少女が浮かべた涙を思いだす。


(それだけじゃない……もっと……ずっと前から、私は自分の歌をウイカに押し付けようとしていたんだ。ステージデビューまで来たウイカを……私はもっと信頼すべきだった……もう一人前の歌手なのだから……)




 ――心がつらいと感じるのは、心の問題です。



 サシェは八年前の、モンブラー医師の言葉を思い出していた。


 本来、人の心は、ストレスを感じれば自然にそれを解消するようにできている。

 それを妨げるのが負の感情――誰かを責める気持ちだ。


 誰かを許せないと思う心は、その誰かと同じことを自分がしていても、それを自分に気づかせない。

 それは無意識に働く心の自己防衛本能であり、たどり着けるはずの答えにたどり着くことができず、ストレスが増大していく。


 人はその状態を、つらいと感じるのだ。


 誰かを責める気持ちを解決することさえできれば、心は自然に、すでにある答えにたどり着く。

 ただそれだけのことなのだが……そのためには自己防衛本能に打ち勝つほどの、とてつもなく大きな勇気を必要とする。


「ありがとう……サシェさん。私、あなたに相談できて良かった……」

「カリリエさんが見せてくれた勇気は、誰もが持てるものではありません。私は、あなたを心から尊敬します」


 カリリエが顔を赤くしたとき、サシェの瞳はもう彼女を映してはいなかった。


(俺は……まだ彼女を責めているのかもしれない。感謝の言葉も、謝罪の言葉も……伝えられないまま……)


 サシェの寂しげな横顔にミサヨが気づいたとき、第二診察室のドアが大きな音でノックされた。

 返事も待たずに入ってきたのは、モンブラーだった。


「診療中にすみません、サシェさん。大変です、カリリエさん。たった今、下層区の酒場の方がおみえになって――」


 不穏な空気が部屋の中をピリピリとさせた。


「――お嬢さんが、誘拐されたそうです」


 ガタンと大きな音を立てて、カリリエが立ち上がった。


 サシェとミサヨが目を合わせた。



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