第三話 仲間の定義 -前編-
十年前。
ブレソール卿の別邸でいつものように勉強をしていた六人の少年少女に、歴史学の教師がこう言った。
「本日の勉強はここまでです。午後の屋外訓練も、本日は中止となります」
「先生、ぼくたちはどうすればいいでしょうか?」
十六歳になった長男のマークが質問すると、教師はただ事務的にこう答えた。
「午後には特別な儀式があるそうです。昼食はとらずに、十二時にベッケル様のお部屋に集合しなさい」
「はい」
ヒューマン族の少年少女たちはただ従順に、指定の時間にベッケルの部屋を訪ねた。
自分たちを待ちうける”儀式”に不安を抱きながら……。
彼らの主人がブレソール卿からベッケルに替わり、ちょうど一年がたっていた。
朝から晩まで続く勉強も訓練も、以前と変わらず継続している。
ただブレソール卿が姿を見せなくなり、三日に一度ベッケルが屋敷を訪れるようになったことだけが違っていた。
その日の午後――ベッケルの部屋から続く地下室で、その儀式は行われた。
ひとりずつ……順番に……。
わずかな明かりしかない地下室には、白衣を着た老人と屈強な体躯の男が二人――いずれもレウヴァーン族で、初めて見る顔だ。
それから縄で縛られたまま動かない薄汚れた――ヒューマン族の幼い少年がいた。
ベッケルは上の部屋に残ったまま。
少年少女たちはただ、「指示に従い儀式を済ませてこい」とだけ命令を受けている。
見知らぬ少年が最初で、それから兄たちと姉の儀式が終わり……最後が末っ子で十四歳のアンティーナだった。
外の様子は見えなかったが、訓練で身に付けた正確な体内時計の感覚によれば、すでに夕刻である。
ノドは乾き、空腹のはずなのだが、それらの感覚はマヒしているようだった。
兄たちと姉の“苦痛の叫び声”が地下室に響くたびに、耳を押さえてうずくまっていたアンティーナ。
ただ儀式が早く終わることを祈っていた……。
「おまえが最後だ」
自分が呼ばれたことに気づいたアンティーナは、震える声で「はい」と返事をし、恐怖で手足をがくがくと震わせながら、兄や姉と同じように衣服をすべて脱いだ。
そして粗末な簡易ベッドにうつ伏せになると両手両足を伸ばし、それらを大男たちが拘束具に固定するのを待つ……。
「少しの辛抱だ」
白衣の老人がそう言った。
アンティーナと同様に苦痛に対する訓練を受けている兄や姉でさえ、三十分以上も絶叫し続けていた。
それを“少しの辛抱”と言う老人が恐ろしくて、アンティーナは目を合わせることさえできない。
老人がそばに置いてある鉄製の小箱の中に皮手袋をした右手を入れ、例のモノを指先でつまんで取り出した。
それは、二本の触角と八本の足をカサカサと音を立てて動かす
その音を聞いただけで、アンティーナの両手両足に力が入ったが、拘束されているため動かすことができない。
その穿甲蟲が通常と少し違うのは、やや大きめであること、色が黄褐色ではなく赤褐色であること、そして……巨大なアゴを持ち、その口から黄色い粘着質の溶解液が糸を引くように垂れていること……であった。
それは、ベッケルが霊獣ディアボロスの入れ知恵で一年かけて老人に作らせた特殊な穿甲蟲。
この老人と大男たちは後に、口封じのために殺されることになるのだが――アンティーナがそのことを知るのは一か月後だ。
ベッドの上には、拘束されたアンティーナの白く均整の取れた十四歳の肢体。
ライトブラウンの髪の間からのぞくうなじには、恐怖のために鳥肌が立っている。
その滑らかな背中の上に、キチキチと音を立てる赤褐色の穿甲蟲がそっと置かれた。
改良された穿甲蟲はその本能のまま、アンティーナの皮膚を喰い破り……肉と毛細血管を喰いちぎりながら、皮膚と筋肉の間をうごめきまわった。
穿甲蟲が宿り場所を好きに探し回るのを阻害しないよう、麻酔処置さえされていない。
とてつもない激痛がアンティーナを襲い、何も考えられずただ絶叫していた。
びくんびくんと身体が跳ね、涙とよだれでできた水溜りに顔が付くたびにビチャビチャと音がする。
漏れた小水のことを気にする余裕などあるはずもない。
穿甲蟲が通り過ぎた跡が内出血のスジとなって縦横無尽に背中に浮き上がり、あちこちから血がにじみ出ていた……。
少女は死ぬと思った。
いや、死んだほうがマシだと思った。
比較的幸運だったのは、兄や姉ほどには苦痛に耐えられず、十分ほどで気絶したことだったろう……。
背中に火をつけられたような痛みで意識を取り戻したとき、アンティーナは自分のベッドにいた。
消毒と手当てを受け、身体には包帯が巻かれていたが……背中の傷は全治三週間。
治っても……大きく醜いアザが一生残ることになる。
身体に入った穿甲蟲がどうなったのか……考えるだけでおぞましかった。
儀式の正体は、次にベッケルが屋敷を訪れたときに明かされた。
霊獣ディアボロスの呪いを受けた穿甲蟲を背中に宿した人間が、ある短い呪文を直接聞くか、
それは体内の水分と爆発的に反応し、半径十メートル以内にある物がすべて吹き飛ぶほどの大爆発を引き起こすという……。
そのことは実際に生きた人間を使って、アンティーナたちの目の前で実証された。
地下室で縛られ意識のなかった少年は、そのためだけの生け贄だった。
一年前にはすでにレベル70前後に達していたアンティーナたちを下僕として手に入れたとき、ベッケルが欲したのは洗脳以上に確実な支配のための鎖だったのである。
***
今日の昼。
サシェたちがソジエ遺跡・東の塔に突入して三部屋目の敵を倒し終わったとき、アンティーナに
ベッケル: 生きていたな、アンティーナ
アンティーナ: ………っ
その瞬間、アンティーナは支配される者としての意識に戻りそうになった。
それをこらえることは、とてつもなく強い意思を必要とする。
二十年間におよぶ洗脳の呪縛に、必死に理性で反発しようとするアンティーナ。
アンティーナ: 私は……私は、もう……
目でサシェの姿を探す。
ベッケル: 貴様がサシェとつるんでこちらに向かっていることは、昨日偶然パールを覗いて知っていた
アンティーナ: そうですわ……私は、もう自由を手に……
突然、大きな笑い声がアンティーナの頭に響いた。
容赦のないベッケルの嘲笑だった。
ベッケル: 自由……自由だと? 奴隷人形のきさまが? 穿甲蟲は十年たった今も、休眠しているだけ……生きているぞ。今この瞬間に俺が“呪文”を唱えれば、貴様は――いや、その狭い部屋にいる全員が、吹き飛ぶことを忘れるな
アンティーナの心が悲鳴をあげた。
(助けて……、誰か……、サ……、シェ……………)
ベッケル: このテルのことは誰にも言うな。魔力を温存してサシェたちと一緒にいろ……命令はそれだけだ
いつの間にか冒険者として
その命令にアンティーナは逆らうことができなかった。
いくつもの狭い部屋に仕切られた遺跡の構造が最悪だった。
背中のどこかに眠る穿甲蟲が爆発したら、自分が死ぬだけでは済まない。
このときアンティーナは、まさかベッケルが姿を消して同じ部屋にいるとは思いもしなかった。
いや、おそらく、わかっていても逆らえなかっただろう。
たとえ同じ部屋にいても、ベッケルが穿甲蟲を爆発させない保障はないのだから……。
アンティーナにできることは、ただ、サシェたちから離れるチャンスを待つことだけだった。
それまでは、けしてベッケルに逆らうことはできないと悟っていた。
〈
ただアンティーナにとって、自分が裏切り者としてサシェの記憶に残ることがつらかった。
あの日――意を決してサシェに主従契約を申し込んだ気持ちさえ、嘘だったことになるのだから……。
仲間に背を向けて〈
(最後にもう一度、皆の顔が見たい……)
だがその仲間が自分に向ける眼差しが、裏切り者を
「アンティーナっ」
サシェの叫ぶ声が聞こえ、アンティーナは心臓が止まるかと思った。
何を言われるのかわからず、恐ろしかった。
「待ってろ。必ず助けるから」
(――っ)
思わず振り返ったアンティーナの脳裏に、誓いの言葉が思い出された。
――誓います……必ず生きて帰り、マリィを救います。
自分が口にした言葉。
(……死ねない……死んじゃダメなんですわ……サシェが待っていろと、そう言ったのですから)
アンティーナは生まれて初めて――自分は世界中の誰よりも幸せな人間かもしれないと……そう思った。
人に信頼されるということ。
たとえ何があっても、信じてもらえるということ。
それは幼い頃から人が心の底で求めている真の幸福であり……手に入れられる人間は、それほど多くはない。
***
ベッケルとその部下、そしてアンティーナが異空間の闇とともに消えた。
部屋の中は静寂を取り戻し、魔導設備は入室時と同様に青い光を明滅させている。
あまりの平穏さに、たった今起こったことが夢か幻のようにさえ感じられた。
「……見たか? ミサヨ」
沈黙を破ったのは、背を向けたままのサシェ。
それに対するミサヨの返事は、まるでその質問を待っていたかのように早かった。
「アンティーナが泣いていたこと? それとも、彼女の指輪が外れたことかな?」
振り向いたサシェの顔は厳しいながらも、ミサヨの答えに満足していることがわかる。
ベッケルの登場とアンティーナの裏切り――立て続けに生じた非常事態に、サシェとミサヨの集中力は異常なまでに高まり、その思考スピードは他のメンバーより確実に速かった。
互いの目を見ただけで、同じ結論に達していることを確認する。
「時間がない……あとは頼む」
「了解」
短いやり取りの後に、サシェは皆の顔を見渡した。
困惑しているカリリエ。
成り行きを見守っているジークヴァルト、カロココ、ラカ。
そして……。
「俺は今からベッケルを追う。ここのリーダーはミサヨに任せるから、一緒に行く者だけこっちに来てくれ」
そう言うと、サシェは〈
サシェに近づけば自動的に、一緒に異空間に飲み込まれることになる。
誰も動かない中で、カリリエだけが一歩進んだ。
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