第八話 大切なもの -後編-



「そろそろ行くわ」


 カリリエが立ち上がった。

 いつの間にか左腕に、そのアイスシールドを装備している。


「こんな盾――って言い方はサシェさんには悪いけど、欲しければあげるわ。でも、ウイカを危険な目に遭わせた罪は、つぐなってもらう」


 高レベルナイトのカリリエなら、そのへんの悪党どころか、ジュナ大公国の警備兵とやりあっても勝つかも知れない。だが、向こうには人質のウイカがいる。


 サシェとミサヨは、こっそりカリリエの後をつけることに決めていた。





  ***





 誘拐犯が指定したタバリア丘陵は、上層区を出たクォナ大陸にあり、潮風が吹き付ける荒地である。


 獣人軍との攻防戦のなごりとして、いたるところに築かれた土塁跡が小高い丘となっている。

 緑といえば地面を覆う雑草のみで、葉のない化石のような木がまばらに見られるだけの寂しい場所だ。


 西に傾いた陽が、タバリアの空に浮かぶ水平に流れるような雲を紅く染めていた。


 街の外なので、当然魔物がうろついている。

 ただし、指定された古墳入口は街に近く、このあたりに高レベルナイトのカリリエが恐れるような魔物はいない。


 それでも比較的凶暴な剣虎族……通称“トラ”が闊歩しているはずだが、その姿が見えないのが不思議だった。


 ナイトの白いアーティファクト装備を夕陽でオレンジ色にきらめかせながら、カリリエはタバリア丘陵を南へ走った。

 左腕には、誘拐犯が要求してきたアイスシールドを装備している。


 やがて、目的の丘が見えた。

 ドーム状の土塁の入口から地下に入れば、その奥に古墳への入口があるはずだ。




 土塁跡に近づくと、突き出したトンネルのような入口の上に人影が見えた。

 レウヴァーン族の男が二人――そして、身体に巻きつけられたロープで両腕の自由を奪われたウイカ……。


「ウイカ――――――っ」


 思わず、カリリエは叫んだ。

 不安で一杯であろうウイカを早く安心させたかった。


「カリリエ――――――っ」


 ウイカの大きな声が返ってきた。

 そして、彼女の両目からポロポロと大粒の涙がこぼれるのが見えた。


 カリリエの姿を見つけた途端、涙があふれたのだった。

 ウイカはまだ七歳の少女であり、彼女にとって粗暴なレウヴァーン族の男たちは恐ろしい大人であった。


「ごめんなさい、カリリエ……私――」


「いいのよ、ウイカ。悪いのは、そいつら……今助けてあげるから」


 カリリエは走りながら、腰の剣をすらりと抜いた。

 彼女が愛用する美しい片手剣――エスパドンが夕陽にきらめく。




「おいおい、止まれよ、歌姫さんよ。これが見えねぇのかい?」


 カリリエがぴたりと止まった。

 ウイカの頭の上に飛び出したネコのような耳が男の指でつままれ、短剣が当てられていた。


 ウイカが震えている。


「よく来たな、歌姫。まずは、俺たちが本気だってことをわからせてやろう」


 躊躇なく短剣が引かれ――。




 ……ウイカの左耳の上半分が地面に落ちた。




「――――」


 カリリエが止める間もなかった。


(ウイカを傷つけないためなら、なんでもできると思っていた……のに……)


 あまりの痛みにウイカは声を上げることさえできず、縛られた手では血が流れる耳を押さえることもできなかった。

 小さな口をぱくぱくさせ、涙を流し続けるウイカ。


「な……んて……ことを……」


 心からの怒りとは裏腹に、あまりの衝撃でカリリエの手足は麻痺したように動かなかった。


 ミラス族にとって、耳がいかに敏感で大切なものであるか、レウヴァーン族であろうと知っているはずだ。

 それなのに、二人の男はもがくように苦しむウイカを見て、ニヤニヤと薄ら笑いさえ浮かべている。




 震えて立ち上がろうとしたミサヨの肩を、サシェが押さえた。

 念話テルで話す。他人には聞こえない。




 サシェ: うかつに行動するな


 ミサヨ: わかってる。打ち合わせ通りでいいよね?


 サシェ: いや……あの仕掛けが気になる


 ミサヨ: ……どれ?




 ふたりはプリズムフラワーを使っているため、犯人やカリリエからは見えず、お互いの姿も見えない。

 サシェが指をさしただけでは、ミサヨにはわからなかった。


 プリズムフラワーは、サイレンスオイルと並ぶ冒険者の必需品で、光学的迷彩機能を持つ魔法の粉だ。

 身体に振りかければ、光の屈折により透明人間になれる。


 透明人間よりも便利なのは、着ている装備やカバンごと透明になれることだろう。

 視覚感知の魔物に気づかれずに移動するための薬品だが、人間に対しても有効だ。


 ただし、音や気配までは消せないので、近くにいることがわかっていれば意識を集中して探せなくはないし、慣れている冒険者ならすぐに見つけるだろう。




 サシェ: 入口に柵が付けられている。俺はあっちを調べるよ


 ミサヨ: わかった。私はウイカちゃんを……


 サシェ: やつら、たぶん素人だ。いざとなったら魔法を使ってくれ


 ミサヨ: …………




 サシェが気にしたのは、犯人たちの足元――土塁跡入口を完全に塞ぐように木の枝で組まれた柵であった。

 普段は、そんなものはないはずだ。


 ふたりはカリリエの近くから離れ、それぞれの方向に歩きだした。



 犯人の男のひとりがいきなり陶器製の壷をカリリエの足元に投げた。

 地面に当たっても壷は割れなかったが、木製のフタが外れて中から粘度の高い黒い液体がドロリとこぼれた。


「な、何のつもり?」


 カリリエは、痛々しいウイカを前にして動けない自分が悔しかった。


「あなたたちの目的は、この盾でしょう? こんな盾あげるから、ウイカを早く返して」


「なぁに、俺たちがアンタに要求することはひとつだけだ。そこを動くな――小娘を返した途端に仕返しされたくないんでね」


 そう言ってひとりが足元の仕掛けを外すと、柵が外側にゆっくりと倒れた。

 サシェが柵にたどり着く前に。




 しばらくして入口から姿を見せたのは、サシェの五倍の体躯を持つ黒い剣虎族の魔物――セイバートゥース・タイガーであった。


(トラか……)


 トラくらいなら、カリリエひとりで十分倒せる――そう思ったサシェの目の前に、二匹目のトラが姿を見せた。続けて三匹目、四匹目……。


 出てきたトラたちは怒りをむき出しにしてカリリエに向かった。

 全部で、二十頭前後――。




 一匹ならともかく、三匹以上となるとカリリエでもかなりきついはずだ。

 ましてや二十頭ともなれば、待っているのは確実な“死”である。


 犯人たちは、カリリエに抵抗するなとは言っていない。

 アイスシールドの〈氷結反射アイススパーク〉発動を確認するとともに、カリリエが必死に戦う姿を楽しんでいるのだった。


「うはははっ。その液体は、トラの子をすり潰して作った魔法のエキスだ。トラどもを集めるのにも、人を襲わせるのにも役に立つ。ほら、もっと頑張らないと、死ぬぞ」


 カリリエのなぎ払う剣で、トラの血しぶきが飛ぶ。

 だが、トラたちはひるまない。狂ったようにカリリエに襲い掛かり続ける。


 カリリエの身体にトラの爪跡が、強大な牙による噛み傷が、装備の上から次々と深く刻まれ、血が噴き出す。




 サシェ: ミサヨ、まだか?


 ミサヨ: いいわ




「うぉっ?」


 歌姫とトラの饗宴に見入っていた男たちは、完全に不意を突かれた。


「走って」


 体当たりするようにウイカを犯人から奪ったミサヨが、ヨロヨロと転びそうなウイカに叫んだ。

 同時に、サシェがトラの群れのど真ん中に、詠唱を終えたばかりの黒魔法を撃ち込んだ。


 〈範囲塊土テラストーン〉――レベル15で習得した土系の範囲攻撃魔法。

 大量の石つぶてがトラたちに降りかかる。


 黒魔道士が使う範囲攻撃魔法の中では最も威力が小さい。

 しかしレベル制限された今のサシェには、これが最大の攻撃魔法だった。


(これで、少しでもトラの意識がこちらに向けば――)


 だが、トラたちはカリリエへの攻撃をやめなかった。


「カリリエさん、ウイカちゃんはミサヨが逃がしました。もう大丈夫です」


 そう叫ぶと、地面に転がった壷に向かって〈猛火ファイア〉の魔法を放った。


 これでサシェの魔法力は空っぽだ。

 次に魔法を使うためには、長時間の休息が必要である。


 壷の中身が可燃性かどうかはわからない。

 ――冒険者としての賭けであった。




「ちっ、仲間がいやがったか」


 男たちはウイカを奪われて少し動揺した。


 プリズムフラワーの魔法の効果は、大胆な行動をすれば消えてしまう。

 ミサヨもサシェも今は姿が見えていた。


「だが、残念だったな」


 ニヤリと笑う男が右手につかんでいるのは、ミサヨの髪だった。

 レウヴァーン族の腕力で、土塁入口の上からミサヨを片手で宙吊りにしていた。



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