8 VS.育児放棄

8  VS.育児放棄ネグレクト




 ‘ 命気 ’とは討魔者にとっては、鎧であり盾であり剣であり、同時に生命いのちの糧だ。


 ‘ 命気 ’を使えない者は、斬られれば死ぬし、殴られれば死ぬし、焼かれれば死ぬし、凍えても死ぬ。


 生命いのちとは、無数の偶然のバランスで成り立つ奇跡のようなものだからだ。


 そんな儚いものだからこそ、尊くて美しいものにしなければならないと想えるのだが、‘ 魔 ’には儚さなど欠片もない。


 傷つけば流れ出し、ほんのワイン一本分も流れ出せば、まともに動く事もできなくなるような血も、痛みで溢れ出し視界をぼやけさせる涙も、‘ 魔 ’にはない。


 対して、どれだけ技を磨いても、わずかなアクシデントで傷つけば、その技を鈍らせ、容易たやすく死に至るのが人だ。


 “ 刺し貫き、打ち砕き、燃やし凍らせたとしても鈍ることなく生命いのちを奪うべく襲いかかる‘ 魔 ’ ”。


 人が、そんな存在に抗うには、それでは足りない。


 だから神々は邪神群が生命いのちを糧にして強力にならないように、‘ 魔 ’との戦いで滅びた神使の魂の欠片で、討魔者を造り出した。


 技を決して失敗しないスキルと変えて与え。

 痛みや傷で弱らないように‘ 命気 ’を与え。

 神使の武器である‘ 神霊力 ’と‘ 精霊力 ’を与え。

 

 ‘ 魔 ’に抗う生命いのちの中から、‘ 魔 ’を討つ‘ 魔 ’を生み出したのだろう。


 討魔者を喰らった‘ 魔 ’が力を増すのは、そういう事だ。


 証明する手段はないが、“ ‘ 魔 ’を滅ぼした討魔者が邪神使の魂の欠片を得て力を増す事 ”などの幾つもの理由から、確信はあった。


 混沌の邪神使である‘ 魔 ’と神使の魂の欠片を持つ討魔者とが、同じ存在の表と裏であるなら。


 そして、“ ‘ 魔 ’を造り出すのが‘ 魔 ’だ ”という事を考えるのなら。


 “ 神使を造り出す神々も、また‘ 魔 ’だ ”という事だ。


 ‘ 魔 ’と‘ 魔 ’が争いあう中で、‘ 人 ’のために‘ 魔 ’を滅ぼすと誓った“ かって‘ 人 ’だった‘ 魔 ’ ”が討魔者で。


 災厄を滅ぼそうとする神々と災厄でしかない‘ 魔 ’の違いは、理性と知性のあるなしの違いだけ。


 生命いのちの敵と、生命いのちを資源として利用するだけの味方。


 邪神群と神々との関係は、人にとって、そういうものだ。


 生命いのちを敬う事も愛す事もないのが、邪神群と神々の本質。


 そう気づけば、信仰など持てなくなる。


 ‘ 武族 ’にとっては、力在るモノなら、それでも信仰に値するのだろう。


 だが、“ 神への信頼こそが信仰だ ”と思う者達は、神々がそういう存在であるというのなら、信仰を持ち続ける事はできなくなる。


 神々を、利害が一致した利用しあう相手として信用はしても、真に心を許せる相手として信頼はできないのだから当然だ。


 そのせいで神々の不興を買い、この状況を招いたのか、そうでないのか?


 それは解らないが、何れにしろ、現在の状況は、神々が宗教者がいうような存在ではないという傍証になるだろう。

 

 まあ、宗教者なら試練と片付けるだろうが──。



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