19 PS.ある刑事の疑惑


19 PS.ある刑事の疑惑




「課長、例の件ですが、子供を蹴り飛ばした時に転んで頭を打ったのが原因って事で、進めていいんですかね?」


 来炉貴くろき警部補が、どうにも腑に落ちないといった顔で、いうのを、私は書きかけの書類から眼を離し、ペンを置いて迎えた。


 話を聞こうという姿勢は大事だ。


 部下とはいえ、男社会の警察で、年下の女上司に形式かたちだけでない敬意を示してくれる貴重な相手だ。


 その上、有能で同僚の信望も厚いとなったら、部下でも敬意は示さないといけない。


 仕事もせずに嫌味をいいにくる同期とかなら、仕事の手を止めたりしないけどね。


 何といっても、この署は人手不足なのだ。


「どうしたの? 何か気になってるようだけど」


 例の件とは、保護責任者遺棄に絡んだ暴力事件の加害者の事故についてだ。


「罪を逃れるために精神障害のふりをしてるとか?」 


「いえ、あれが演技なら大したもんですが、自分は違うと思います」


「では、何が気になっているの?」


「演技じゃないのが問題というか……ただ頭を打っただけで、あんな風になるものかと」 


 確かに、ドラマなどのフィクションでは、よくある話だが現実では滅多に聞かない話だ。


 でも、ありえないというわけじゃあないわよね。

 それをあえて、見過ごすべきかと尋ねるという事は……。


「貴方からみて、普通の記憶障害じゃないわけね」


「マル被のあれは──少なくとも、赤ん坊のように言葉も喋れず…………その……下も垂れ流しというのは普通ではないかと」


 警部補は、少し考えながら言い難そうに言葉を選んでいる。


 彼のそういう姿は珍しいと思いながら、内容を考えてみる。


 赤ん坊になった三十すぎのチンピラヤクザねぇ。


 うん、確かにそれはそうだろう。

 そんな症状は一般で知られる病気の範疇にはない。


「担当の医師はなんて言ってるの?」


「頭を打ったことで何らかの作用があったかもしれないけど、詳しくは調べてみないと不明だと……」


「……それじゃあ、事件としては扱えないわね」


「…………」


 手が空いてるならともかく、彼は既に三件の事件を抱えている。


 自分で調べる時間はないけれど、勘が事件かもしれないと告げているのだろう。


 彼は、その勘で、警視総監賞を幾つも受賞した超がつくほど優秀な刑事だ。


 こういった事から、思わぬ事件が明るみに出た事もある。


「わかったわ。一応、生活安全課のほうに話してみるわ」


 そう言いながらも、今回のこれは流石に事件にはならないだろう。


 目撃者かもしれないのは、2歳の幼児で、通報者の主婦も犯人では在り得ないだろう。


 第一、記憶を奪う方法がない。


 もし、記憶を奪うような薬品があったとしても、そんなものを使えるのは、トク秘の向こうの組織で、それを立証するのは難しいからね。


 それでも優秀すぎる彼に貸しを作るという意味で、受けて置く。


「ありがとうござます。私のほうからも挨拶しておきます」


 優秀すぎるから、彼は他の課にも顔が利く。


 やはり、もう比較的、暇な事件係か防犯係に調査を頼んだのだろう。


 ただ、上司抜きでは先方に迷惑がかかるから、話を通しておきたいということだ。


「あっちの課長には貸しがあるから、大丈夫よ」


 そんな事は承知の上だろうけど、これは貸しだという事を示すために、言うと。


 警部補は、解っているというように一礼して、席に戻っていった。


 律儀な彼だから、必ず借りは返すだろう。


 貸し倒れするような相手でもないしね。


 彼の背中から眼を離すと、私はまた書類仕事に戻った。

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